最後の記憶はヴィクトリアに留学中の頃、イーストコートのベーカリーでカフェラテと季節限定フルーツパイを食べながら交際相手を待っているというものだった。いかにも私が好みそうな栗毛で背の高いクランタの男性で、奔放で快活という言葉がこれほど似合う男もいないと思わせる明るい人だ。社交的で交友関係が広く、私にないものをたくさん持っていた。私は彼に羨みと憧憬を抱き、半ば服従するように付き合っていた。関係の歪さや理不尽さに疑問を抱かないわけではなかったが、理不尽ではない恋愛などこの世のどこにも存在しない。相手を好きになれば好きになるほど論理は役に立たなくなる。
だが目の前の天馬はどこまでも論理的に私を諭した。
私は本当に、こんな人を愛したのだろうか。生真面目で理屈っぽく、陰のある男のどこを好きになったのかさっぱりわからない。何かのっぴきならない事情があって恋人を装わなければならなかったのだと言われた方がよっぽど納得できる。
「このカフェにはふたりでよく来ていたんですか?」
「いや……あなたが気に入っていたんだ」
「では私たちは普段どんなところで?」
「あなたが私の部屋を訪ねてくることが多かった」
ムリナールさんと話していて提示されるのは予想外の自分ばかりだ。デートは恋人の部屋でだけなんて不健全にもほどがある。
ロドス艦内にもバーや娯楽施設があるのに引きこもっていることを良しとしていた自分が信じられない。ムリナールさんに合わせていたのだとしたら信じられないくらい好きだったのだろうが、それはムリナールさんに否定されていた。
彼によれば、ムリナールさんの頼みで恋人関係を構築したらしい。それもまた信じ難い事実だった。
私たちはあるときボリバルで知り合ったのだと言う。なんでそんなところにいたのかと言ったら私がボリバルの使節団に所属していたというのだから驚きだ。
ヴィクトリアに留学していたのは芸術を学ぶためだった。学校では法律を専攻していたが、そちらは両親の目を誤魔化すためのおまけで、本当は最初から彫刻がやりたかった。街の隅に尊敬してやまない彫刻家が暮らしていて、拝み倒してどうにか週に一度か二度と指導してもらえることになり、心から嬉しかった。
芸術家になると決めていた筈なのに結局私は政治家の秘書をやっていたらしい。
「今の私ってすごく詰まらない人間に思えてならないです」
でもムリナールさんのような真面目な人からしてみたら、夢見がちなうえに暴走しがちで、狡くて、信念もやる気もなさそうな人間の方が好ましいのだろうか。
怪我が治ったのなら早く日常生活に戻れと病室を追い出されてからムリナールさんはずっと側にいてくれた。緊急性の高い依頼以外は仕事を後回しにしてでも私の側であれやこれやと世話をしてくれ、そのおかげもあり割とすぐに自分の置かれている状況を理解することができた。
「あなたはロドスに加入すると決めたときに変わった。いや、変わったと言うより本来のあなたに戻ったのだろうと思う」
「どちらに惹かれたんですか」
「すべてあなただ」
私たちはカフェを出て停泊中の龍門の街に降りた。ケバケバしいネオンと喧騒に脳の奥が揺さぶられる。
シラクーザで起こった爆発事故に巻き込まれ記憶障害を負ったと聞かされているが、本当は龍門でトラブルに巻き込まれたのではないかと感じるほど何か言いようのない不快感が内に巻き起こるのを感じた。
ムリナールさんは私の記憶を取り戻すことに積極的だった。隠そうとはしているが、どうしても思い出して欲しいという必死さは至る所から滲み出ている。
もし何も思い出せなかったらこの人はどうするのだろう。
ロドスに入ってからの私とそれ以前の、芸術を諦めたあとの私とでは話を聞く限りまったくの別人と言っていいくらい違うのだ。どちらも好きだなんてそんな都合のいい話があるわけがない。結局のところその辺りには何か秘密があって、額面通り受け止めるべきではないのだろう。
屋台で買ってもらった甘いソーダ水を飲みながら川向いのビル群に目をやる。私はいったいこの街のどこを気に入っていたのだろう。屋台料理など口にしそうもない男を連れ回して何がしたかったのか、疑問が尽きない。
ソーダ水は特別美味しくもないし、目映い街の明かりもきれいとは思えない。猥雑な空気が頭の中を曇らせてゆく感覚が拭えない。
「ここであなたに交際を申し込んだ」
「そうなんですか。喜んだでしょうね」
「いや、あなたは本気にしなかった。私のことを好きだと言うのは口ばかりだ」
「私、怒られてますか?」
ムリナールさんの眉間のシワが深くなる。怒っているのではないのだ。焦燥感や困惑や期待がない混ぜになった表情だ。
なぜ期待するのか。そう思ってしまう私は薄情だ。私たちが恋人だったなら期待するのは当然だと思う。本当にムリナールさんが私のことを愛していて、私もまたそうだったなら。
正直プレッシャーだった。彼の献身はありがたい半面煩わしくもある。彼にとって私は愛する女かも知れないが私にとって彼は見ず知らずの、神経質そうでとっつきにくい男でしかなかった。
いっしょに過ごすうちに心地よく感じられるようになるかも知れないと何度も自分に言い聞かせ、ムリナールさんに協力してきた。おかしな話だ。協力しているのはムリナールさんの方で、私は協力してもらっている立場である筈なのにまったく主体的ではない。正直なところ近頃では思い出せなくてもいいとさえ思い始めていた。
決してムリナールさんのことが嫌いなわけではない。
でも好きでもない。心が動かない。彼に対してだけでなく、何に対しても。
私は、私をヴィクトリアに置いてきてしまったような気がする。今すぐにでもヴィクトリアに戻りたいがムリナールさんをどうしたらよいのだろう。置いて行っても、連れて行っても自分を取り戻せる気がしない。彼という存在がノイズに感じられる。
こんなにも私を好きでいてくれるのに。
こんなにも私を好きでいてくれるから。
罪悪感すら抱けず、自分の望みもわからない。
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