白い床、白い壁、白い天井、換気の行き届いた空気、下卑た視線、いつもどおりの日常。社内で黒野さんと目が合っても立ち止まることはない。社会人に相応しい笑みを浮かべて挨拶をし、通り過ぎるだけ。
彼の周りにいた数人の視線が私の背中に突き刺さっていたが気がつかないふりをして職員用の食堂に向かった。冷蔵庫から冷凍食品を詰めただけのお弁当を取り出しレンジにかける。十分で食事を済ませ席を立つ。来たときと同じ最短ルートでデスクに戻ると、休憩に行く前にはなかった付箋つきの書類が山になっていた。
灰島重工に入社したばかりの頃は平和だったなと思う。代わりに刺激は皆無で毎日が退屈極まりない消化試合のようだったけれど。
仕事を丸投げしている人たちは嫌がらせをしているつもりなのだろうが、私からしてみたらありがたい限りだった。
可哀想な女を演出することは存外難しいのだ。私の気持ちはどうあれ事実としていじめられていれば泣き真似にも真実味が増す。
この一ヶ月、定時に退勤できたことは一度もなかった。業務が忙しいからではない。終わった、と思ったら次の仕事が降って湧いてくる。私のために仕事が捻り出されているのである。
理由はよくわかっていた。黒野さんへの反感がすべて私に向かってきている。彼が私を特別扱いしたことで、有象無象までが私をいじめても良いと判断したらしい。
たぶん大多数は私たちが恋人だとは夢にも思っていないのだろう。
もし関係を知っていて嫌がらせをしているなら大した度胸だ。今のところ黒野さんはこの件に関して何の反応も見せていないがこの先もずっと黙っているとは考えづらい。
黒野さんみたいな人がお気に入りの玩具を他人と共有するなんて何か理由があるとしか思えなかった。
例えば私を叱りつけるため、とか。
書類を片づけて家路につく頃には夜の十時を回っていた。道路を挟んでアパートの前に立つ。二階角部屋が私の住まいだ。私の部屋にだけ明かりがついている。
少し緊張しながら部屋の鍵を開けた。中に誰かいる。誰か、というか合鍵を持っている黒野さんだとは思うがそれ以外だったらどうしようという気持ちがわずかながらにあった。
玄関にきちんと揃えられている革靴は黒野さんのもので間違いない。奥から出てきた黒野さんの顔を見てようやく安心できた。
「おかえり。遅かったな」
「残業で……」
「風呂には入るだろ? 今日は疲れたからお前を風呂に入れて癒されたいんだ」
口調からお願いされているわけではないことがわかった。彼の中ではもうそうすることが決まっている。
どっちみち入浴はするので反抗するほどのことではないし黙って頷いたが、疲れているから風呂に入れろ、ではなく風呂に入れさせろと言うのだから不思議だ。
私の腕を引く黒野さん自身はすでに入浴を済ませていた。ティーシャツにスウェットという普段からは想像できないラフな格好。脱衣場に入ると彼の体からかすかに石鹸の匂いがした。
黒野さんの手がゆっくり動き、服が脱がされてゆく。ジャケット、シャツ、スカート、一枚一枚布を奪い去られる。ごく丁寧にストッキングを下ろしたあとに残った下着はあっさりと取り払われた。
期待していたわけではないがなんの感慨もないらしい。事務的にやるべきことをこなしているだけに見える。脱がさなければ濡れるから、脱がす。それだけ。
背後から肩を捕まれ浴室に押し込められ、有無を言わさぬ調子で風呂椅子に座らせられる。鏡越しの黒野さんはしかつめらしい顔でシャワーの温度を確認しており、浴室内が徐々に湿り気を帯びてきた。
足元から少しずつ上に向かってシャワーを当てられる。体が程よく温まってきたタイミングで黒野さんは髪を洗い始めた。
私はただ俯いてじっとしていた。あまりに心地良くて体を洗われ始めても意識がぼんやりしたままだった。
黒野さんは私を湯船につけたあと待っているようにと言い残して浴室を出てゆき、ものの五分ほどで戻ってきた。
手動人間洗濯機にはもちろん乾燥機能もついている。私は両腕を肩の高さまで上げ、立っているだけでよかった。コットンで化粧水を顔に染み渡らせ、乳液を塗るところまで彼は完璧に行った。
リビングに移動して髪を乾かされていると、私が湯船に浸かっている間、黒野さんが食事の準備をしていたことがわかった。
ひとりぶんの食事がリビングテーブルの上に並べられている。ブラウンシチューとサラダとパン。パンは私の好きな店のソフトフランスに見える。
彼は隣に座って食べさせこそしなかったが、正面の席に腰掛け、私が食べ終わるのをじっと見詰めていた。
食事を終えソファでうとうとし始めた頃には日付が変わっていた。寝なければならない。頭ではそう思ったけれど黒野さんの顔を見た瞬間寝られないことを理解した。
寝室で脱がされている間、またしてもぼんやりしていた。下着までわざわざ着せたのに。
黒野さんは傍らの鞄から紐を取り出して私の体に巻き始めた。嫌がってみせても躊躇う素振りなど一切ない。
自由を奪われた体を見下ろすと縄に圧迫されて乳房が醜い形に変形していた。固くなった乳首をつまみ上げながら黒野さんが言った。「四つん這いになれ」
股に食い込む縄が気になってもたもたしていたら突き飛ばされてベッドに沈み込むことになった。頬に触れたシーツの清潔さを感じ取り、取り替えてくれたのだなと思う。たぶん明日の洗濯も黒野さんがやってくれるだろう。
のろのろと肩で体を支え、腰を上げる。後ろ手に縛られていると不便でならない。
果たしてこれが四つん這いと言えるのかは疑問だったが黒野さんは文句を言わず、足の間を眺めているので敢えて自分から問おうとは思わなかった。見てもらえるならなんだっていい。
「俺に媚びてどうするんだ」
「媚びてなんかいません」
「じゃあこのありさまをどう説明するつもりだ?」
ゆっくり指が入ってくる。執拗に中を掻き混ぜられ、体が跳ねる。脳が熱く痺れて言葉が出てこない。黒野さんに何を言われても反射的に否定することしかできなかった。
黒野さんは見られた顔ではないと言いながら顔中を舐め回す。じゃあ見ないでくださいと私は反抗する。反抗すればするほど戒めが強くなるとわかっているからそうする。
糸の切れた凧のように漂い出しそうな私をつなぎとめてくれるのは彼しかいない。
お腹が空いたと言えば朝食を準備してくれて、服を洗濯してくれて、髪を結ってくれる。午後のミーティングに呼び出されるまで黒野さんは私の世話をして過ごしていた。
彼にされた命令の一つひとつを思い返す。淫靡な空気の中で発せられるそれらの中には目を瞠る輝きがあった。
出社間際に黒野さんは言った。「きみは残業時間を減らす努力をするべきじゃないか?」と。私は素知らぬ顔で「そうですね」と答えたが、内心では自分の浅慮を恥じていた。私を叱るために嫌がらせを無視しているのではなどと都合の良い妄想だったわけだ。
黒野さんとは部署も違うし、業務の関わりもほとんどない。彼にはそこまで気に掛ける義務はないのである。
黒野さんが残業を減らせと言うなら減らすかと思い行動に移すことに決めたが、それからも業務量はさほど変わらなかった。仕事の押し付け方が巧妙になり、断る術を封じられてゆく。正直、どうしたら良いかわからなかった。
黒野さんには残業が多いと指摘されただけだ。いっしょに過ごせる時間が減るから業務改善をしたらどうだと暗に言われたとはいえ命令されたわけではない。と言い訳もできる。
どっちかと言ったら仕事が好きだし、残業が増えること自体はそれほど苦ではないのである。
昼食のために食堂へ向かう途中で声を掛けられなければもうしばらく現状が維持されていたかも知れない。
珍しく社内で声を掛けてきた黒野さんが私の苗字を呼んだ。まったく急ぎではない企画立案書の修正を私に頼むためだった。
黒野さんの前に立ち、書類に目を落とす。あまりにどうでもいい内容だった。
「俺を試しても無駄だぞ」
「なんのことですか?」
「お前をいじめていいのは俺だけじゃないのか?」
「そのとおりです」
「そうだろう。認識に齟齬がなくて良かったよ。そう思うならそういうふうに振る舞ってほしいものだが」
私の髪を耳にかけた指が外耳をなぞる。黒野さんが耳元で囁いた。
「ナマエ。悪い子にはお仕置きだ」
「……はい」
「今日は絶対に俺より先に帰れ。わかったな」
「わかりました」
やっぱり黒野さんは私の期待を裏切らない。
私は黒野さんの命令に従って定時で帰宅し、彼の帰りを待つ。黒野さんは不本意だったのだとしても私のために残業してくれる。
私は誓って黒野さんを試してなどいないと言えた。黒野さんがナマエに試されていると思いたがるのも無理はないが、黒野さんが私のために残業の根源を片付けに行ったり、私をいじめて嬉しくなるのにはちゃんと理由があるのだ。
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