考えるな。

30.7.26

CHAINSAWMAN/吉田ヒロフミ

無意味なキス!
こんなキスに意味などない。頼んでいない!
サービスのつもりなのか? いったいなぜ? なぜなのだろう。
体を押し返そうとして伸ばした手がすっと取られ、指がねっとりと絡みついてくる。
瞬間的に体温は上がり、息が苦しくなる。頭がぼぅっとしてくる。
いけない。やめさせないとと思うのに結局されるがまま。苦しいのと恥ずかしいのとで涙が溢れそうになった頃、ようやく唇は解放された。
つながれたままの手を見ながら自分にも、吉田ヒロフミにもほとほと呆れてしまう。

「どうしてしたの」
「じっと見てたから、したいのかと思って」

全然違うと言いたいところだったが当たらずとも遠からずだったので言い返すことができなかった。でも本当はキスなんて必要ないことくらい吉田ヒロフミにもわかっていた筈だ。だから不毛で無意味なのだ。

「学校ではしないって言ったでしょ」
「そのつもりでいたけど呼んでくれないから心配になってね。最近また顔色が悪いから」

反応すまいと思うと言葉が口から出てこなくなって、暗に心当たりを告げているようになってしまった。吉田ヒロフミと出会ってからずっとこの調子だ。元々人付き合いが得意なタイプではないのにぐいぐいこられて対応しきれない。突き放そうとしてものらりくらりと躱されて、こちらがあたふたすることになっている。
ベッドが軋む音にはっとした。腰掛けるなよ、と思ったが言うより先に吉田ヒロフミが口を開いた。

「やっぱり俺じゃ不満?」
「まるで私がスケベ女みたいな言い方するのやめてよ……。不満じゃなくて、そもそも納得してないから」
「何に」
「付き合うことにだよ」

ぽかんとしている吉田ヒロフミを見て、何かおかしなことを言っただろうかと不安になった。おかしいのは私ではなく目の前の男だという自信がぐらついている。
おかしいのは私ではない。断じて。吉田ヒロフミがあまりにも堂々としていることからして間違っているのだ。

「まだ拘ってるとは思わなかった。苗字さんが他の女の子としても構わないって言うならどっちでも同じじゃないの?」
「気持ちの問題だから」

握られたままの手を目で指し示し、離すよう言う。吉田ヒロフミは私の言葉を無視した。この男は時々聞こえなかったふりをする。自分にとって都合の悪い話は聞こえなかったふりだ。

「次は何をしろって言われてるの?」
「覗くか、覗かれるか」
「いつもと何が違うの?」

確かに悪魔の要望自体は普段と大差ない。ぜんぶ気持ちの問題なのである。
開き直ることもできないまま彼の前に体を晒すことは恥辱と言う以外にない。それこそが悪魔の望むものの一端であり、羞恥心が消え失せたら行為を行うことの意味が薄れることはわかっているが、だったら相手は吉田ヒロフミでなくても構わないと思うのだ。彼に見られるくらいなら見ず知らずのおじさんを相手にする方がいくらかマシな気がする。嫌だけど、吉田ヒロフミが何も感じていないと思うと居た堪れなくて苦しくなるのだった。

「トイレ行く?」
「行かない!」
「じゃあ今日は苗字さんの家に行くね」
「やだよ」
「悪魔との約束は守らないと大変なことになるよ」

そんなことは言われなくても身に沁みてわかっている。私と契約している悪魔は比較的聞き分けがいい方だとは思うけれど、悪魔であることに変わりはない。やはり我儘で、尊大で、己の欲望に一直線だ。自分の望みを叶えるために遠慮なんてしない。

「授業終わるまで寝てるでしょ。ホームルーム終わったら鞄持ってくるからいっしょに帰ろう」
「そんなことされたら付き合ってるって思われる」
「事実なのにそんなに嫌がられたら傷つくな」

事実とは認めたくないし傷ついているわけがない。吉田ヒロフミは私のことが好きで付き合っているわけではないのだから。
私の方こそ割り切って吉田ヒロフミを利用すればこれほどコストパフォーマンスの良い契約はないのに、握られた手のひらが熱くて本当に嫌になる。利用されているだけだと頭ではわかっていても心が追いつかない。
つながれたままの手は放っておいて体をよじり壁を向く。本当に家に来るつもりなのだろうか。吉田ヒロフミにとっては些細なことでも私にとっては眠れなくなるくらいの重大事だということを彼は理解していないと思う。
解いた手で毛布をかけ直してくれた吉田ヒロフミが「迎えに来るから」と言い残し保健室を出て行った。
布団の中で怠い体をゆっくり丸める。
悪魔の言いつけを実行できなかったら、私はこのまま弱って死ぬ。吉田ヒロフミに殺されるも同然だと思った。

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