苗字ナマエのことが本当に大好きだったんだ。
三ツ谷御幸は言った。
自殺じゃないよ。事故。仕事が忙し過ぎて疲れてたんだ。プレッシャーにも弱くてよく調子を崩してた。だから自殺じゃないかって噂になってるんだろうけど、単純に具合が悪くてふらふらだったのに階段を使ったから落っこちたんだよ。事故の数日前からエレベーターが故障しててね。
苗字ナマエが亡くなったのは今から二年前のことらしいがそれにしても御幸の様子は淡々としている。大好きだったというのがポーズなのではないかと訝ってしまうほどだ。
迫中という男から聞いた話だと御幸は苗字ナマエが亡くなった事実に涙を流したことはないらしい。泣かないから悲しんでいないとは言わないけれどでは何で悲しみを測ったらいいのだろう? 苗字ナマエもとい私が三ツ谷御幸に好かれていたとどうしたら実感できるのか、彼の話を聞いて尚わからなかった。

「三ツ谷誠……僕の弟は十歳のときに亡くなったんだ。だから大人になった姿は知らない。でも彼女はきみにそっくりだったよ」

視線を上げることができなかった。
世良丞が教えたから、御幸は誠が実の弟であることを知っている。しかもそれを信じている。
心臓が口から飛び出してきそうだった。正面に座る御幸が顔を覗き込むように身を屈めているのがわかる。
何か言わなければ。
すごい偶然ですね。同姓同名で顔もそっくりなんて俄には信じられませんよ。でも、この世に似た人は三人いると言いますよね。性格はどうですか? まさか性格まで似ていることはないでしょう。
そう言えたらよかった。
膝の上で握り締めていた拳を解き、息を吐く。「私」と言うだけなのにひどく長い時間を要した。

「私がここに来たのは、あなたが苗字ナマエを……苗字ナマエのことをどう思っていたのか知りたかったからです」
「好きだった」
「それはもう聞きました。なんで好きになったんですか。どこが良かったんですか? どこからどう見たって平凡な人間じゃないですか」
「平凡じゃないよ。才能があった。たぶんそこに惹かれた。でも本人が認められないみたいだった」

思わず顔を上げる。御幸は平然としている。
平然と言ってのける。「僕は彼女に書くのをやめてほしいって言ったんだ」
言っている意味がよくわからなかった。苗字ナマエの才能に惹かれて好きになったのに書くのをやめろと言った?
嫉妬、のわけはない。私の知っている三ツ谷御幸はそんなせせこましい人間ではないし、第一彼には圧倒的な才能がある。嫉妬なんてする必要がない。
体からさっと血の気が引いていくのがわかった。
こちらの苗字ナマエに才能があったというのが事実なら、やはり私たちはまったく別の人生を歩んでいるのだろう。それこそ別人だと主張しても無理がないほどに。
薄々気づいてはいた。こちらの私は売れっ子だったのだ。彼女が書けばドラマだろうが舞台だろうがなんだってヒットするとまで言わしめるちからがあった。
私は一度だってヒットを出したことがない。
元の世界で誠に言われたことが頭の中を巡っていた。
なんでもっと努力しないんだよ。必死になれないんだよ。
必死に努力した結果がこの世界の私なのかも知れないが、だとしたら本当に馬鹿みたいだ。事故死が真実でも、自殺したようなものではないか。
足元に置いていたバッグを拾い、ソファから立ち上がる。帰宅を告げると御幸に手首を掴まれた。

「私は御幸さんが求めている苗字ナマエではありません。御幸さんも確かめるために呼んだんでしょう? 話してみてわかったんじゃないですか。別人だって」
「別人かどうかはともかく、僕が求めてるのはきみだよ」
「揶揄わないでください!」

逃げるようにマンションの一室を出る。もちろん御幸は追い掛けてこなかった。
マンションを出てしばらく歩いたところで一度立ち止まり、駆け出した。夜の熱気が身体中に絡みついてくる。過去の亡霊から逃れたい一心で走った。頭を空っぽにしたかった。
こちらの私は御幸と出会って才能に目覚めたのだろうか。それとも才能に目覚めたから御幸の目に留まったのだろうか。
憎い。憎い、憎い、憎い。何度となく私を辱める三ツ谷御幸が憎い。
そしてわずかなりとも期待した自分に吐き気がする。

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