覚えていて

21.7.25

Hyakkiyakou-syou/飯嶋 律

僕の自由を絡め取る人物の名はナマエと言う。他人行儀な言い方だが、いつからか、彼女を妹と呼ぶことに抵抗が生まれるようになってしまったのだ。
彼女と僕の関係はもはや兄妹という枠組みに押し込められないものとなっていた。別段ふたりの間に疚しいことがあったわけではない。もちろん今後もあり得ない。兄妹としての形が歪んでしまったのは道徳的な問題ではないのである。
ある年の彼岸の頃までときは遡る。僕たちは十二、三才の子どもだった。ナマエはまだ男の子の服を着ていたし、髪も短くして、ほとんど口を利かなかった頃のことだ。ナマエの影は極端に薄く、母や祖母は度々彼女のこと失念した。
祖父が存命の頃はもう少しマシだった気もするが、それは単に彼女の特性が未発達だったからなのかも知れないし、彼女が本気で息を潜めていなかったからなのかも知れず、真実はわからない。
情けないことに、その瞬間が来るまで、僕は彼女がそれまで何をしていたのかまるで気づいていなかった。あろうことか嫌われているとすら思っていたのに、ナマエは僕のことをずっと守ってくれていたのだ。それこそ祖父の代わりに。
ナマエは僕を庇って数日間行方不明になった。暗い穴に吸い込まれそうになった僕を庇い、自分が虚ろに落ちて行ったのである。
僕はナマエが戻ってくるまで生きた心地がしなかった。自分のせいで家族を失うかも知れない罪の意識に苛まれていただけではない。ナマエが不在である事実に対して母も祖母も明らかに反応が鈍く、当たり前のように過ごしていたからだ。
帰ってきたナマエに泣きながらこんなことは二度としないで欲しいと訴えると、彼女はにべもなく無理だと突っぱねた。僕はてっきり祖父の言いつけだからそうしているのだろうと思っていたのだが、そのときナマエは珍しく苦々しい表情を浮かべて「自分は泣くくせに私は平気だと思っているの?」と言って僕を批判した。
僕はその言葉を聞いて非常に反省したが、心を入れ替えるには一歩遅かった。奇妙な穴に吸い込まれたナマエは見る者の認識を歪めるようになっていて、親類は皆、今の彼女を〈飯嶋家で預かっている知り合いのお嬢さん〉として扱っている。
だからそれ以来僕らは表面上兄妹ではいられなくなった。
頭のどこかでは血のつながった家族であることを認識してはいるのだろう。祖母も母もおかしなことを口にはしないが、いっしょにいる僕たちを見る目は兄妹を眺めるそれとはやはり少し違う。初めは戸惑っていたものの慣れとは恐ろしいもので、自分もまたナマエを妹として扱えなくなってしまったというわけなのである。

「飯嶋、三日前に駅の近くで女の子と歩いてただろ」
「え? あー、従姉妹じゃないかな」
「従姉妹? お前、従姉妹とあんなべったりくっついて歩いてるのか? まあくっつきたくなるのも納得のきれいな子だったけどさ。なんだ、彼女じゃないのか」
「そんなんじゃないよ」
「でも従姉妹って結婚できるよな」
「変なこと言うな」

ゼミ室の中でかすかな笑い声が漣のように広がったが笑いごとではない。
昔は家族にすら存在を失念されるほど影が薄かったのに、最近のナマエは少し変わった。こうしていっしょにいたのは誰だと聞かれることもしばしばだ。
彼女の佇まいが目立つのかも知れない。ナマエは僕の安全のことだけを考えているから、立ち居振る舞いが変だと思う。同じ大学を受験しないと言い出した辺りからそれは顕著になった。彼女なりにいろいろと気を遣ってくれていることがわかるからこそ言い出せないが、大っぴらに守られていたときの方がこちらにとっても都合が良かった気がする。
目の届かないところにいられると、こちらからは守ってやれないのだった。ナマエは明らかに祖父の血を濃く受け継いでいる。この世ならざるものへの対処に僕のちからなど必要としないが、生きている人間に見つかると途端に弱い。本人もどうしたらよいのかわからないらしく、変質者に拐かされそうになったことが二回もある。小学生の頃に一回、大学生になってから一回。しかも後者は伯父の開が助けに入らなければ相当危ないところだったと聞く。
目撃情報によって従姉妹らの名前を出しナマエの存在を隠すことに今のところは成功しているが、いつ直接声を掛けられるかはわかったものではない。存在が広く知れれば厄介ごとは増すだろう。
いっそ本当に赤の他人だったらと考えたことがないわけではなかった。

「おかえり、律ちゃん」
「ただいま。早かったんだね」
「うん」

こうして玄関で迎えてくれるナマエが、僕の顔を見てほっとしている様に心苦しくなる。彼女には彼女の人生があるのに。僕の自由がナマエの自由を奪っている。

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