ただ側にいて

4.5.25

MUKOUBUCHI/藤永太郎

憔悴しきった俺を見かねて、両親が見合いを勧めてきたことが生活を一変させるきっかけとなった。ナマエを諦め、他の誰かと人生を歩むきっかけだ。
俺はつくづく押しに弱く、流されやすい男だった。空回りながらも積極的にあれこれと行動を起こし、格好が悪かろうと構わないと思えたのはナマエの前だけで、根本的な人間性は昔と今とで大差がないらしい。
ナマエをいつまでも待ちたいと思っていたのに見合い相手と結婚することを選んだときは、ナマエの身勝手さを散々説いていた須田も「おめでとう」と言いつつすっきりしない表情を浮かべていた。
結婚生活は幸せなものだった。美人で堅実な妻との間に二人の子どもを授かり、家族仲は良く、出版不況と言われながらも昇進し、仕事もプライベートも充実した良い人生だったと言えるだろう。
ナマエのことを忘れたわけではなかったが、胸が張り裂けそうなほど苦しくなることはいつの間にかになくなっていた。

ナマエ、待てなくてごめん」
「謝る必要なんてありません。あなたの人生に私は存在してはいけなかったんですから」

ベッドの上でゆっくり目を開く。そこには間違いなくナマエが立っていた。
彼女がなぜこんなところに、とは思わなかった。歳を重ねるにつれ、ナマエが帰ってくるまででも構わないと言い切った妻と別れることは現実的ではなくなってゆき、同時にナマエが戻ってくるならこんなときに違いないと夢想するようになっていた。それも自分に都合の良い妄想だったが、ナマエがどこかで生きているのなら、“こう”なる気がしていた。
手を伸ばすとナマエは俺の皺だらけになった手を両手で優しく包み込んでくれる。
ナマエと過ごした日々の記憶が頭の中から溢れ出してきて、すべては夢の中の出来事などではなく、現実に起こったことなのだと心を慰めてくれた。彼女に関する記憶が徐々に薄らいでいったのはきっと加齢のせいばかりではないだろう。
ずっとナマエのことを待っていた筈なのに、変わらず愛している筈だったのに、容赦なく時は過ぎ去り、彼女は過去になっていった。今ならわかる。ナマエの言うように、ナマエは常人と関係してはいけない人だったのだ。
後悔はないが一抹の寂しさが胸を過ぎって行った。同じ気持ちを確かめあえても腕の中からすり抜けてしまうという事実が今さら眼前に突きつけられて涙が溢れた。

「あなたと過ごした時間は私にとってかけがえのないものになりました。絶対に忘れることはないでしょう」
「ありがとう、会いに来てくれて……」
「これが最後です。あなたは幸せになってください」

奇妙な言い方だと思った。今際の際だからこそ現れたのだろうに、まるでこの先の人生があるかのような口振りだ。
清潔な空気の中に漂う消毒液のにおいが脳を刺激する。自分の命が今にも尽きようとしていることが感じられた。
ナマエの手があたたかい。眼差しが柔らかい。初めて見る、理知的で不完全さが垣間見える表情。無垢であどけなかった彼女ではなかった。

「きみは誰なんだ……?」

ナマエが微笑む。
答えを聞き出すことは早々に諦めて瞼を閉じた。もう会うことはないと言われても納得できるわけがない。
結婚をして、世帯を持って、穏やかに暮らすことが俺の幸せだと信じているナマエには理解できないだろう。どれだけ振り回されても、ただ側にいてくれさえすればいいと願った気持ちを。

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