※サン・ジュニペロオマージュ(こちら参照)
悪魔に魂を売ったと囁かれていることは知っているし、自分でもその通りだと思う。この世ならざるものでもいいから助けて欲しいと願ったのは私だ。
傀にとって私は実に扱いやすく、都合の良い取引相手だったと言える。
今になって思うと、傀の目的はライセンス非所持で向こうへの出入りを記録されない手立てにあったのだろうが仮に気づいていたとしても、私は気づかなかったふりをして提案を飲んだ筈だ。死ぬまで今の職場で働き続ける以外に道はなく、目標も目的もない人生への絶望から逃れるために傀が必要だったのだ。
人口減少に伴う電脳化推奨事業の影響で働き口は今やほとんどない。電脳世界を維持するのに必要最低限の人間が労働しているような状況で枠からあぶれたらどうなるか、末路は悲惨なものである。職にありつけただけまだマシな方なのだ。例え、管理局勤めになったらいくら金を持とうと生涯現実を生きなければいけないとしても。
普通の人間は完全電脳化を望む。ここには娯楽と呼べるようなものは何もないし、人との交流もほぼ断絶しているとなれば当然だ。充分な金を蓄えていながら現実に留まるような人間は精神が壊れているか、よっぽど自分が好きなナルシストかとまで言われる。
ただ、傀はおそらくそのどちらでもない。
生きてきた痕跡が残らない人間が珍しい世の中ではないが、傀のことは大抵の情報を公式に記録している管理局のシステムを利用しても何ひとつわからなかった。私が調べたわけではなく、目敏い上司がいつの間にか調査していた。組織としては当然の対応だろう。何も出てこなかったと上司が苦笑いを浮かべた理由はわかっている。私も上司も徒労に終わることを予感していて、私は先に結果を出すことを選び、半ば仕事を押しつけたからだ。
調査結果を告げられたとき、既に仕事の結果は出ていた。滞っていた債務処理の大半が傀のおかげで片付いた。傀の能力が想定より遥かに上回っていたことも大きいが、単純に人手不足が解消されて効率が上がったためでもある。
管理局の人手不足問題が解決することはまずない。いくら賃金を引き上げようが、傲慢とも言えるほど高い選考基準を緩和しようが、例外なく電脳化は認められず転職も許されないという条項がある限り関係ない。大体、管理局勤めというだけで人格破綻者であるかのような風潮だ。誰もやりたがらない。
私には借金があったのだ。一族が返済をなあなあにし続けていた莫大な借金だ。国の金だった。電脳化してから返済を行う道も有り得た。というより普通はその方が楽だしあれやこれやと書類を揃えてどうにか電脳化を実現させるだろう。だが私が返済を迫られた額はとてもではないが真っ当に働いて返せるものではない。どうしても電脳化したかったわけではないけれど、私とて管理局勤めは嫌だった。最初こそ他の方法を模索し、抗った。しかし最終的にはプレッシャーに負け心が折れた。
私が管理局に入ったことで借金の半分は免除されている。残る半分は給料からの天引きと偶の収入から支払っていた。
麻雀を覚えて良かったと思う。バブル期日本の高レート麻雀はよく稼げる。ついでに仕事も片付いて一石二鳥だ。
いくら完全電脳化法案を通すためとはいえよくもまあ“苦しみのない世界”を謳えたものだと思う。稼働したての頃は言葉通りの世界が実現していたのだろうか。今や向こうでだって首を吊る人間はいるし、子どもができないだとか、会社が倒産しただとか、本来有り得ない悩みや問題が山程溢れている。結局所変わって安心安全、心の安寧が保証されると今度は自ら不安を欲する贅沢が生まれるのだ。
権利を行使して債務記憶を抹消してから電脳化しても、そういった人たちは簡単に新しい借金を作った。電脳化契約を結ぶ時点で持っていた借金は電脳化後の収入やら基本補助金から天引きされるが向こうで作られた借金は返済を管理せねばならず取り立ても楽ではない。単にヤクザや金貸しの身分を持つ人間に任せておけばいいという話ではないのだ。任せきりですべて丸く収まるなら一番良いのだが、金を返さない人間に貸した側の人間は厳しいし、結構な頻度で無茶苦茶してくれる。端的に言えば殺人が起きる。
まったくなんのために作ったのやら死亡保障というものがあって、本人の過失だろうと債務者本人が死亡すると借金割合が減り管理局に一定の弁済義務が生じる。サボらず管理しろよ、ということなのだが理不尽極まりない制度だ。たった十数人で目眩がしそうな数の人間をチェックしている現実に目を向ける人間はもはやどこにもいない。
だからこそ私は傀のやり方を好ましく思っていた。
負債のない人間ならば死んでくれて構わない。むしろ平気で借金をするような人間には死んでもらった方が良い。文字通り命を賭けて打ってくれるなら願ったり叶ったりだ。
私も傀を見倣って闘牌することがあるけれど手加減しなくていい分ストレスは少ない。彼のように思うがままとはいかないから毎回上手くいくわけではないものの一番効率的なやり方だと思う。
罪悪感なんてものは一切なかった。向こう側の存在にこれっぽっちも現実味が感じられないからだとも言えるし、倫理観が欠けているせいかも知れない。
ベッドの上で目を覚ますと家の中に人の気配がした。
霞がかった頭を懸命に働かせ、今日のスケジュールを思い返す。何か約束をした覚えはない。傀が帰ってくるのは明日の午後の予定で間違いないし、面倒事だろうか。
リビングへ出ると見慣れた格好の傀がソファでタブレットをいじっていた。黒のカットソーに黒のパンツ、靴下も黒。なまじ部屋が白いため薄闇の中でもよく目立つ。
「電気、また反応しなくなってしまいましたか?」
「いいえ。旧六本木エリアで暴動です」
「今月に入ってもう二度目ですね。このままだと私に声が掛かるのも時間の問題でしょう」
「通常業務は?」
「もちろん継続です。こうなる気はしていたのでお願いしたい案件の候補はまとまっています。実入りと労力が釣り合わないものも多いので行きたくないものは遠慮なく弾いてくださいね」
通常業務に加えて仕事が増えることは過酷以外の何ものでもないが傀に回す分の仕事は必要だ。たとえ暴動鎮圧に失敗することになっても優先しなければならない。
傀がじっとこちらを見詰めていた。こんなとき、彼は私の本心を見透かしているとしか思えない。
「偶には気晴らしも必要です。ナマエさんも今度はご一緒しましょう」
「責任感の欠如だと叱られます」
「最初からあなたに責任なんてないじゃありませんか」
傀の言う通りである。責任の所在などもはや誰にもわからないが、少なくとも私にはそれだけの責任を負わなければならない肩書や地位はない。暴動の鎮圧なんて、いっそ失敗してくれた方が良いような気さえするし、この件に真面目な姿勢で取り組むつもりはなかった。
結局のところ私は傀の誘いに乗るのだろう。彼の言葉は誘惑に満ちている。多くの人々が傀に誑かされるのは金がちらつくせいばかりではないのだ。この男の魔性がそうさせることを私はよくよく理解しているつもりである。
油断をすれば私も闇色の穴に落ちてゆく。一度だって私だけは大丈夫と思ったことはない。私も大勢の中のひとりでしかない。
傀はなぜか私を気に入っているが、それもいつまで続くかは定かでなく、終わるなら突然に、一方的なものとなるだろう。
いつまでも見詰め合っていると混沌としたものが心の内に這い寄ってくるのを感じる。人の常識に当てはめられない恐ろしいものが目の前にいると思うとかすかな笑みが漏れ出た。
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