面白可笑しい人生

24.7.24

CHAINSAWMAN/吉田ヒロフミ

私の中の悪魔はいつもの廃墟でことを済ませれば良いと囁いたが、いくら廃墟とはいえいつ誰が来るとも知れない場所だ。そんなところで下半身を露出して欲しいなどと要求することはとてもじゃないができなかった。
良心によるものではない。自分まで同じことを求められる可能性がゼロではないからだ。私と契約していると言っても悪魔は悪魔。身勝手で、主導権は己の手中にあると思っている。それは私が大抵の我儘を聞き入れてしまうからだが、無茶な要求の見返りをケチられるということがないからこそ関係が成立していた。私の契約者はその辺りのことだけはよく弁えている。
吉田ヒロフミも、物分りの良さだけなら悪魔と大差ないところが恐ろしかった。普通、他人に見られながら自慰などしたくないと思うのだが彼に躊躇いはなく、私が頼めば学校でも、野外でも見せてくれようとするものだからいつも妙な緊張をしなければいけなかった。
別に吉田ヒロフミは見られて興奮する変態というわけではない筈なのだ。ただ私との取引を効率良く進めるためにしてくれているということくらいわかっている。だからせめてもの配慮をと悩んでいるのに、飄々とした吉田ヒロフミを前にすると思い悩んでいることがすごく馬鹿らしく感じられて嫌だった。
吉田ヒロフミは見られて興奮するどころか現状をどうとも思っていないのではないか。他人の家のトイレでせっせと右手を動かし射精感を高めている様子を扉の隙間から覗かれている状況は控えめに言って異様だ。そんな異様な状況を彼は内心鼻で笑っているのかも知れない。少なくとも羞恥心はないのだろう。
自分に都合の良いように考えてはいけないと思いながらも、現実逃避をやめられない。彼がくぐもった声を漏らして動きを止めるまで、私はどうにか自分を正当化しようと戦い続けた。

「お疲れさまです……」
「なんで苗字さんの方が疲れてるの?」
「いや、その……」

言いづらい。ひと仕事終えたと思っているであろう吉田ヒロフミに、何が悲しくて「今度は見ていてほしい」などと言わなければならないのか。

「交代ってこと?」
「そう……いうことになるかな」
「構わないよ」

ズボンを上げた吉田ヒロフミが私の横をすり抜ける。私はその場にしゃがみ込んだまま動けなかった。確かに見ている方が楽だがそんなにあっさり承諾しないで欲しかった。
のろのろと立ち上がって場所を交代する。私が便座に腰掛けるとトイレのドアが拳一個分空けて閉じられた。
スカートの裾から手を差し入れて下着の上から割れ目をなぞると蒸れたのか、興奮したのか原因の定かでない湿り気を指先に感じて頬が火照る。早く終わらせてしまいたい一心だった。
吉田ヒロフミはいつもどんな気持ちで見られているのだろうか。見た目にはわからないだけで本当は恥じているのだろうか。今私を見ている彼の目があまりにも熱心で、私が見ているときはどんな様子だったろうと考えてしまう。自分では事務的にこなしているつもりでいたけれど視線がいやらしいと思われていたとしたらすごく嫌だ。好きでこんな破廉恥なことをしているわけではないのに。
それにしてもこれは苦行以外の何ものでもない。
吉田ヒロフミはよくも見られながら達することができるなと心底感心した。尊敬の念すら覚える。早く終わらせたい気持ちとは裏腹に感度はどんどん鈍り、一向に終わる気配がない。焦れば焦るほど羞恥心ばかりが募って体の熱が引いてゆく。

「あのさ、苗字さん」
「……待たせてごめん。も、もうちょっと待って」
「すぐイけそう?」
「たぶん……」

いや無理だろうというのが正直なところだった。無理。急かされては余計に無理だ。どうしよう。それなりに忙しいであろう吉田ヒロフミをすっかり待たせてしまっている。

苗字さんさえ嫌じゃなければ手伝う? 手伝うのありならだけど」
「えっ、え? 手伝う!? 手伝うって……なにするの……」
「駄目ではないんだ」

立ち上がった吉田ヒロフミの顔を見上げながら、無意識の内に頷いていた。嘘をついて彼の提案を拒否すれば何も起こらなかったかも知れない。しかしこの瞬間の私は一秒でも早くこの異常空間から抜け出したくて堪らなかったのだ。
やることが終わって正気に戻った瞬間、途轍もない後悔に見舞われた。吉田ヒロフミのために大したことはしてやれないと予め告げてあるのに、どう考えても不釣り合いな対価を受け取ってしまった。しかも一度こうなったからには二度三度と同じことを要求される可能性が高い。こうなってくると吉田ヒロフミ以外の相手を見つけた方が良いかも知れないと思えてくる。お互いに目的が一致するやりたいだけの男を探すのだ。

「今日は本当にありがと。助かった」
「こちらこそ」

流しの横に水を注いだグラスを並べて置き、トイレが視界に入らないよう立つ。横目で吉田ヒロフミの様子を窺うともうすっかり汗も引いて落ち着き払っていた。やはり彼にとっては今日みたいなイレギュラーも些事なのだろう。

「あのさ、相談なんだけど……今日までの分で終わりにしない? この関係。こんなことになってしまって申し訳ないし、これ以上のことをさせるのはさすがに抵抗があるから……」
「俺とするのをやめて違う相手を探すってこと? 俺より条件の良い奴はなかなか見つからないと思うけど」
「やりたいだけの人なら見つかるでしょ。こっちの事情を話す必要はないし、都合が悪くなったら別れればいい」
「俺も苗字さんさえよければ最後までできるよ」
「いやあなたせっかくモテるのに私とセフレだなんて勿体ないことしないでください。デンジくんの監視なら出来る限り続けるから心配しないで」
「その理屈なら……付き合ってれば問題ないってことだよね? じゃあ俺と付き合おうよ」
「……なんて?」
「事情を知ってる人間の方が都合良いよね。やりたいだけって言っても普通のセックスにしか応じない人だったら元も子もないんじゃない? その場合、別れるとなったら苗字さんの評判が落ちかねないわけだしリスクが高過ぎる」
「えっと、評判とかはどうでもいい」
「俺ならノーリスクだよ」

きっぱりと言い切った吉田ヒロフミの勢いに圧倒されてすぐには否定の言葉が浮かばなかった。さすがにノーリスクの訳はない。
でも確かに極ノーマルなセックスには応じてくれても擬似的な覗きや自慰の公開まで許してくれるかどうかはそのときになってみないとわからない。それにもし本人が口ではいいと言っても今日の私のようにできない可能性もある。

「…………じゃあ、浮気は自由にしてくれていいので」
「ふふ。そんなことしないよ」

それはむしろプレッシャーだと言い掛けて口を噤んだ。言い合っても仕方がない。結局吉田ヒロフミが他の人間と関係を持ったとしても気にしなければいいだけの話だ。しないと言ったくせになどと責める権利すら私にはない。
水を飲み干し、またいつでも声を掛けてと言い募る吉田ヒロフミには頭が上がらなかった。形ばかり恋人になったからと言って何も変わらないではないか。

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