あ、と思ったときにはもう遅かった。シャイロックの手には淡いピンク色の封筒。視線は差出人の記載された裏面に注がれている。慌てて取り返そうと腕を伸ばしたが、シャイロックは軽やかに身をかわして口元に笑みを浮かべた。

「この名前……。例のご令息じゃありませんか。おやおや、つまり心に決めたひとと言うのはあなたのことだったわけですね」

西の国は、大商家の放蕩息子がついに結婚するという話題ひとつで数ヶ月もの間落ち着きがなかったのだが、一転して破談が発表されたのと同時に国全体が混沌としてしまった。
婚約者がとんでもない美女であったこと、そしてその美女を捨ててまで結婚したい女がいると奴が大々的に発表してしまったことが主な原因だ。

「ようやく身を固める気になりましたか」
「……断るとは考えないわけ」
「あなたは押しに弱いですからね。猛アタックを受けて頷いてしまったあとかと。花なんて飾っていますし」

テーブルに飾られた花束の存在感は凄まじく、視線を向けずとも香りがこれでもかと主張してくる。
「私だって花くらい……」飾ると言いかけて、昔シャイロックが寄越した花束をその場で灰にしたことを思い出した。当時は誰かからものを貰うという行為自体が重く感じられて嫌だったのだ。

「なんですか?」
「いや、なんでも……」

この様子だとシャイロックも忘れてはいないだろう。気まずさから視線を逸らすと目の前に封筒が差し出されたので黙って受け取る。
向こうが勝手に盛り上がっているだけで私にはまったく気持ちがない。身を固めるも何も恋人でないどころか手すらつないだこともない。

「いけない子」
「な……」

目の前に影が落ち、シャイロックの指先が頬をつとなぞる。身の危険を感じて彼と距離を取ろうとしたが、シャイロックは容赦なく魔法を使って私をカウチに座らせた。体の自由が奪われシャイロックに視線を固定される。
白く美しい指がシャツの金ボタンをひとつ、ふたつと外してゆく様子を視界の外側に感じながらこの状況をどう打破するべきか考えるのは至難の業だった。もう完全にバレているのだ。すべてわかっているのにも関わらず私を辱めるためだけに確認しているのだからもはや尋常の言い訳で納得させられるわけもない。

「もしかしてもっと酷いことをされたいですか?」
「そんなわけないでしょ」
「手紙をわざと目につきやすいところに置いていましたね」
「突然訪ねてきたのは誰なの」
「私ですよ」

本当に見られたくなかったのならどうにか隠すことができた筈だという批難が言外に含まれていた。隠したところで暴かれていたとは思うがそんな反論は許されていない。
胸元に咲く呪いの印は数週間前よりだいぶ薄くなっているものの解呪までにはもうしばらくかかりそうだった。しかしほとんどデメリットがなく、もはや放っておいても支障がないとなれば真剣味も薄れるというもの。面倒くさくなってほんの少し放置していた結果がシャイロックの不興を買うとはまったくついていない。

「解呪しないのではなくできないのでしょう? お人好しも結構ですが、私がどう思うかは考えてくださらないのですね。傷つきました」
「考えたって結果は同じなんだし、意味ないでしょ」

むしろ、傷つくとわかっていたら尚更相談できない。こういうとき、シャイロックがどんな行動を取るかわかったものではないからだ。早々軽率なことはしないと思うが、準備さえ整えたらあの馬鹿息子を殺さないとも限らない。多少の自由が損なわれるだけで別に死にはしないとなれば少し好きにさせておくくらいどうってことはなかった。

「酷いことをされるのが嫌なのなら、おねだりしてください」

声色は優しげだが瞳の奥は冷めている。冗談はやめろと言っても、今ならまだ私の身に酷いことが起きるだけで済むだろう。
本当はシャイロックに助けてもらいたかったのかな?
と、自身の胸に問い掛けた。せめて格好だけでもそれらしく振る舞おうと思って。
しかし問うまでもなくあり得ないとわかっていた。私はシャイロックに助けてもらおうだなんて虫のいいことは考えない。望めば叶えてくれると知っているし、そうすることで楽に生きられることも理解しているが、彼に甘えるなんてご免だ。

「シャイロックがどうしても手伝いたいって言うなら終わりにする」
「それは一体どっちなんですか」

シャイロックのため息はもう普段通りの温度を取り戻していて、私の体に残っていた少しの緊張も同時に解けた。これでも喧嘩をしたいわけではないのだ。できることなら仲良くやりたいとは思っている。過去の行いゆえにシャイロックが信じないことも理解した上で、本心から思っている。
シャイロックは花瓶から薔薇を一輪抜き取って、花弁に口付けた。花は濃い赤色の煙に変わり窓の外へと流れてゆく。
私は私に恋した愚かな男のことが嫌いなわけではなかった。しかし気持ちに応えることは決してできないし、私のことは忘れてほしいと望んだ。例え私と結ばれても彼が後悔することは目に見えていたからだ。
彼は涙ながらに本気だと主張していた。魔法使いを雇って、自分に呪いをかけたと言った。「あなたが僕を拒絶したら、僕の四肢は痛み、臓腑は傷つく。最後には外からも内からも腐って死んでいくんだ」と。

「あなたみたいな方は愛に見返りを求めてもいい気がしますね」
「要らないけど、今回のことはひとまずありがとう」

シャイロックはうちに来るまで、いや手紙を見つけるまで、本当に何も知らなかったのだと思う。あまりにも唐突な来訪であったが、知っていたとすればおそらく最初から怒っていた筈だ。というより、叱るためにやって来ただろう。
私にとっては非常にやりづらい、厄介で鋭敏な勘をシャイロックは持っている。シャイロックは私のためにその勘を利用する。要らないと言っても助けようとする。
シャイロックこそ愛に見返りを求めるべきなのではないだろうか。こうやって窓の外に目を向け続けている私に「では帰ります」とだけ言って帰ろうとしないで、酷いことをしていけば良いのに、彼はそうしない。

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