捨牌の選択で長考したりはしないのに、五分経っても居酒屋のメニューから顔を上げないナマエの姿は新鮮そのものだった。真剣に悩んでいるというより何を頼んだら良いのかわからず困っているふうに見える。麻雀を打っているときは冷酷という言葉がこれほど似合う女はいないと思わせる横顔をしているが、今はまるで人見知りの子どものようだった。
「俺が適当に頼もうか?」
「……お願いします」
それにしても、よくオーケーをくれたなと思う。これまでに飲みの誘いを断られること三回。ナマエがよく出入りしている雀荘のマスターにも、ナマエが誰かの誘いに乗っているところはおろか、ろくに会話しているところも見たことがないと苦笑いされたことがあった。今夜店が臨時休業でなかったら、まず間違いなく彼女はついて来なかっただろう。
「煮凝り嫌い?」
「食べたことありません」
「魚で作ったゼリーだよ」
お通しで出てきた河豚皮の煮凝りを奇怪なものでも見るような目で見ていたナマエが箸をつける。少し高目とはいえ居酒屋に来たことがないというのも頷ける綺麗な箸使いだ。しかしどこぞのご令嬢なら煮凝りくらい知っていそうなものである。というか、ビールも飲んだことがないと言うし、揚げ出し豆腐も、白子も、タコの唐揚げも不思議そうに見詰めていたことを考えたらそう単純な話ではない気がする。
大体、ただの世間知らずなお嬢さまが高レートの博打で勝ち続けるなんてまず不可能だろう。かといって彼女は金のために打っているわけでもない。たぶん打ちたいから打っているだけ。ナマエの打牌からは勝ちたいとか、金が欲しいといった欲求が感じられないのだった。
麻雀の話なら会話も弾むと踏んでいたけれど、ナマエは食事に集中しているようだったので数々の牌譜を頭の片隅に追いやり自分も料理に向き合うことにした。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
「……以前私の麻雀が見たいからあの店に通ってると言っていましたよね。藤永さんは打てなくてもいいんですか?」
「そのうち相手してくれたら嬉しいけど……。見も面白いよ」
ナマエの顔に困惑の色が広がった。きっと彼女には理解できないことなのだ。
時刻はもうすぐ二十三時。後ろをついてきたナマエがレジ前でボストンバッグを開けようとしたので慌ててその手を制した。自分が誘った手前、もちろん払わせるつもりはなかったがこのバッグには間違いなく裸の札束が詰まっている。こんなところで開帳させるわけにはいかない。
「藤永さんって変わってますね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
店を出ると霧雨が降っていた。ナマエは一瞬考える素振りを見せて、軒下から出てゆく。
終電があるうちに解散したけれど、これからマンション麻雀だろうか。ナマエは大通りの方へ向かっていたが不意に立ち止まり小走りで戻ってくる。
「次に会ったら打ちましょう。では」
「え」
ナマエにとって、千点100円の店で俺と打つことにどんな意味があるだろう。初めてマンションで打ったときはまるっきりの無表情だったことを考えると、好感度が上がったか。いや、それは流石に烏滸がましいかも知れない。でも下手をすると嫌われていると思っていただけに嬉しい。
少なくとも嫌われてはいない。
そうだ。好かれているとまでは行かずとも嫌われていないというのはとても良いことの筈だ。
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MUKOUBUCHI/藤永太郎
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