火点し

14.3.23

CHAINSAWMAN/吉田ヒロフミ

罅割れがひどく目立つコンクリートの階段を勢い良く駆け上る。角度が急で、三階に到着する頃には少し息が上がっていた。四階、五階、そして六階。休みもせず一気に登る。建てつけの悪いドアを押し開き、フロア全体がぶち抜きの一室に足を踏み入れると湿気と埃の入り混じったにおいが鼻をつく。
急げ、急げ、急げと頭の中で響く声が私を急かす。
私は額から噴き出る汗を手の甲で拭いながら小走りで窓際に近づいた。肩掛け鞄からオペラグラスを取り出して向かいのビルを覗く。見るべき場所は決まっていた。五階だ。裸の男女が絡まり合っている筈のそこ。
間に合った。
安堵と達成感から体の力が抜けてゆく。しかし同時にどうしてこんな真っ昼間から始めるのかというやり場のない怒りが湧いてきて神経が逆立った。どうして私がこんなことをしなければならないのか。背後から近づいてくる足音に気づきながらもひたすら我慢しなければならないのか。
この世は理不尽で、残酷で、救いがない。
若い男の声で「何をしてるの?」と訊ねられたが私は無視をした。今はそれどころではなかった。数十メール先で人類が交尾を行っている。私には最後を見届ける理由がある。二つの乳房が激しく上下し赤茶けたセミロングの髪が乱れ、背中が仰反る様をどうしても目に焼き付けなければならないのだ。例え本意でなくても。

「仕事?」

さらに背後から話し掛けられ頭の毛細血管が二、三本切れた音を聞いたような気がした瞬間だった。その一瞬が私には十秒にも一分にも感じられるほどの衝撃が走る。
凝視していた部屋のカーテンがすっと閉められたのだ。

「なんで覗いてたの」
「……うるさいな」
「悪魔との契約かぁ。変わった悪魔だね」

私はそうだとも違うとも言っていないのに目の前の男、吉田ヒロフミは勝手に話を進める。
この際、つけられていたことはどうでもいい。というよりも現状問題なのは吉田ヒロフミではない。吉田ヒロフミ自体がどうだってよかった。私は乾き切った目を瞬かせオペラグラスを鞄にしまう。口から盛大なため息が漏れ出た。

「協力するよ」
「急に何言ってるの? 気持ち悪い」
「だってここ数日ですごい窶れてるし、この間の話も、ほら」
「この間の話……」
「デンジくんが言ってたやつ」

そういえばあのとき吉田ヒロフミも近くにいたのだったか。面倒臭い。
デンジくんから、男なら誰でもいいのかと問われてそうだと答えたら彼は珍しく嫌そうな顔をしたことを思い出す。私だって真の意味で無節操に誘っているわけではないのだが説明したところで理解できないだろうと諦めた。私のことを覚えていたということはどうでもいい記憶ではなかったということだ。万が一にも彼の思い出を汚してしまうのは忍びなかった。

「お願いを聞いて欲しいんだ」
「デンジくんの監視ね」
「話が早くて助かるよ。苗字さんにぴったりというか実際見張ってるでしょ。だからついでに情報共有してもらいたいなと思って。代わりと言ってはなんだけどきみが何か困ってるなら手伝うから」

眠気と苛立ちで頭がくらくらする。
吉田ヒロフミを嫌う理由もないが、かといって好きでもない。争ったこともあったけれどそれは仕事の内だし、そこには何も残らなかった。たまたま同じ学校に通うようになったことには驚いたものの今日までお互い見ず知らずの他人として振る舞ってきたのに今さら何だ。観察されていたのかと思うと無性に反発したくなる。
私は窓から離れ階段の方へ向かった。吉田ヒロフミの横を通り過ぎると彼が後ろからついてくる。
今すぐにでも倒壊しそうなビルの階段を二人で降りてゆくことに妙な緊張感を覚えた。ここで悪魔に襲われたら、私はたぶん死ぬ。吉田ヒロフミの提案をおとなしく飲んだ方が利口だということを頭ではわかっていた。

「私がデンジくんを見てるのはあくまで個人的なものなんだよ。吉田くんみたいに組織的な意思ではないわけ」
「うん」
「吉田くんと約束したら好きなときにやめられなくなるじゃん」
「そうだね。でもこのままだと学校にもまともに通えないくらい切羽詰まってるように見えるよ」

錆の浮いた手摺に捕まりふらついた体を支える。吉田ヒロフミの言うことは正しい。従順とは言い難い悪魔と契約している以上ある程度覚悟していたことだがこのままでは動くのもままならないという状態に陥りかねない。そうなったら取り返しがつかないのだった。
正論を吐き出す口が憎らしかった。今日一日で吉田ヒロフミのことが大嫌いになってもおかしくないほどに屈辱的だ。

「便利に使ってくれていいよ。それだけの価値が苗字さんにはある」
「……あのさぁ、私が監視の見返りにして欲しいこと、本当にわかってる? まずは百万通りの自慰を発注されるんだよ。吉田くんの自尊心とか考慮されないやつを」
「別にそのくらいならいいよ」
「そのくらい? 変態なの? ここでしろって言ってもできる?」
「それで証明になるなら」

振り返って絶句した。
自身のベルトのバックルをかちゃかちゃいじっている腕を掴み「やめて!」と大声を出す。
やる。止めなければこの男は間違いなく始める。私を試しているわけではないことは嫌というほど実感できた。もはやある程度私の性格は理解しているのだ。ここで本当に自慰を見せつければ私が断れないことを吉田ヒロフミは知っている。いや、その素振りを見せるだけで充分だということまでわかっていたのだと思う。

「信じてくれた?」
「…………信じた。信じたからここではやめて」

満足気な吉田ヒロフミの表情を見上げて眩暈がした。藁に縋るよりはマシだと自分に言い聞かせて辛抱を課さなければ今すぐ残りの体力を振り絞り全力でこの場から逃走したい気持ちでいっぱいだった。
最低最悪。
私の頭の奥で悪魔の笑い声が高らかに響いていた。

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