ここが現実世界ではないと気づいたとき、私の目の前には巨大な街頭モニターがあった。そこにムーくんと呼ばれる学士が映っていたことは偶然だったのか、それとも映像が引き金となって記憶を呼び覚ましたのかはわからない。確かなのは私が興玉駅前の展望デッキというまったくもって不自然な場所で白昼夢を見たということだけだった。
私はアストラルシンドロームについてよく知っていた。メビウスのこともμのことも詳しく知っていた。だから自分の置かれている状況はすんなり受け入れられたが、しかしどうすることが正解なのか、解決策があるかと言えばそれはまた別の話だった。
リグレットないしは楽士の誰か、あるいは全員が世界の維持に関与している。どう考えてもひとりでどうこうできる問題ではない。
私はネクタイの結び目を指先で数度なぞったあと、心を決めてインターホンを鳴らした。中から「今開けるね」という男の声が聞こえる。
ムーくんのファンミーティングには三度目の応募で当選した。何を話すかは決めていなかった。実際会っても当たり障りのないことしか話せなかったし反応を見ても彼は私に気づかなかったと思った。
「いらっしゃい」
「……お邪魔します」
ラフなパーカーに細身のパンツ姿で現れた“ムーくん”は私の知っている男性によく似ている。
「家では宇宙服じゃないんですね」
「さすがに動きづらいから。楽曲制作してる部屋はコスモいよ」
「見学してもいいですか」
「ここだよ。中には入らないで」
右手側のドアが開かれる。内装はパステルカラーで統一された、ファンシーで、可愛らしい雰囲気だった。ムーくんとしてメディアに露出している彼のイメージ通りだ。
機材の説明を一通り受け、素直に感心していると不意に会話が途切れた。不審に思った私とムーくんの目が合う。彼は何も言わずに部屋のドアを閉めた。
ムーくんは無言で歩き出す。私はその後ろについて行くしかなかった。
リビングは想像していたよりもずっと質素で言葉に詰まった。先に見せてもらった部屋との落差が激しい。やはりいちファンとして呼び出されたわけではないようだ。
勧められてソファに腰掛けるとムーくんも隣に腰を下ろした。
「苗字、なんで違うの」
「突然どうしたんですか」
「苗字って名前に心当たりない?」
「それは母の旧姓です」
「両親が離婚したとかは?」
「いいえ」
現実だと中学三年生の冬に両親が離婚した。でも今の私は仲の良い両親と二人の弟妹の五人で暮らしている。妹は母と不倫相手の間に生まれた子どもだったので、現実では決してあり得ない家族構成なのに、夢を見るまで違和感すら感じていなかったことが不思議でならない。
「そうか……。なるほど」
ムーくんは何か納得したみたいに私の頬へ手のひらを滑らせゆっくり首筋までを撫でた。彼の思惑が不明確である以上、拒否するべきだったが、されるがままになってしまった自分を少し恥じた。
「きみ、変だよ。熱心なファンには見えない。でも僕の誘いに乗って部屋に来た。これってどういうこと? 危ないって思わなかった? それとも危ない遊びをしてみたかったの? ねえ」
ナマエ。名前を呼ばれるのと同時にネクタイをぐいと引き寄せられ彼の顔が近づく。
「いつ、私に気づいたの?」
不意に彼の表情が歪む。小馬鹿にしたような、軽蔑するかのような眼差しが私を射抜いた。
「ファンミで顔合わせたとき。髪型違うくらいで間違えるわけないだろ」
決して髪型が違うだけではないと思う。私は彼が学生時代の私を見つけたことに少なからず驚いていた。
「現実のこと思い出したから僕に会いに来たのか?」
「そう……だね。家永なら何か知ってるんじゃないかと思って」
「……いろいろ教えてあげてもいいよ。どっちみち帰すわけにはいかないし」
口調は戯けているが目はまったく笑っていない。さすがに殺されることはないと思っての接触だったため、どうするべきかは迷うところだった。
彼の口振りや態度から、なんとなく私以外にも記憶を取り戻した人間がいるのではないかという気がした。その人を探し出せれば現実に帰る手立てが得られるかも知れない。
おそらく説得は無理。ならば抵抗する、か。
玄関までそれほど距離はない。一か八かに賭けてマンションを出られる可能性はある。でもそれは家永を拒絶するということだ。
もちろんこの世界に長居してはいけないとわかってはいる。ここでどんな理想を叶えても現実は変わらないどころか肉体は劣化し、どんどん不都合な状態に変化していくだろう。
「逃げないって約束してくれるなら家の中では自由にしてていいよ」
「そんな口約束を信じられるの?」
「信じられる」
なぜ、とは訊かなかった。答えは知っているからだ。
「ため息つくのやめて」
「ごめんなさい」
もしかしたら私は最初からこうなることを望んでいたのではないだろうか。家永といっしょにいれば空虚が埋まる。家永が側にいたからこそ日常をやり過ごせていたのだ。彼が楽士として現実に帰る気がないと言うのならもうどうにでもなればいい。
現実に帰っても家永はいない。本人から改めて事実を突きつけられると心が折れそうだった。
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