腕時計を見ると予定より一時間は早い到着だった。急ぎの案件を今日中に、と思って予定を立てたのだが、納期が大幅に伸びたためこれはチャンスとばかりに定時で上がったのだ。一度帰宅し、シャワーを浴びても時間は余りあった。
私は食材がたんまり入った紙袋を抱え直し、ショルダーバッグからキーケースを取り出す。表面にいくつもの丸い溝が掘られたフラットな輪郭の鍵。鍵を回すときの重みが心地良い。
中に入ると大理石の三和土に革靴が揃えてあるのが目に入った。まだ帰っていないのではないかと思っていたが、パラドックスはすでに帰宅しているらしい。
シャワーの音を聞きながら真っ直ぐキッチンへ向かい、冷蔵庫に買ってきたものを詰めている最中、気づいたことがあった。私は手早く食材を片付けてリビングへ出る。閉じられた扉を横目で確認しソファに近寄ると、やはりその背凭れには濡れ羽色のジャケットが無造作に放られていた。
珍しいこともあるものだ。ジャケットを取り上げながら普段のパラドックスなら絶対にしないような行動を頭に思い浮かべてみる。彼が几帳面なのは周知の事実だ。別に私の前でだけそうだとか、単なる思い込みというわけではない。
見渡す限り部屋はいつも整理整頓が行き届いているし、彼の身につけているものからもその性格は窺える。
私は持っていたジャケットを顔の前まで持ち上げて匂いを嗅いでみた。コロンと煙草の香り。胸いっぱいにパラドックスの匂いを吸い込むと顔に血が上って鼓動が速くなる。
ばかなのではないだろうか。
ハンガーを使いクローゼットに服をしまい入れながら軽く首を横に振る。ちょうどそのタイミングでパラドックスがバスルームから出てきたため、お互いにぎょっとして一瞬固まった。その後すぐにパラドックスの表情は明るくなるも、私はどんな顔をしたらいいのかわからず少し困った。
滴が垂れる金髪から目が離せなかった。

「もう少し余裕があると思ったのだが」
「早く終わったから」
「そうか」

下はスラックスに、上半身裸という出で立ち。首にタオルをぶら下げたその姿でパラドックスは私に近寄ってきた。会うこと自体が久しぶりであるためかそのままじゃれついてこようとするのをひらりと躱し、距離を取る。不思議そうな表情を浮かべているがわかってやっているのかそうでないかは判断がつかない。
私がまだ濡れていることを指摘すると、パラドックスは合点がいったように「ああ」と短く声を漏らした。そんなことかとでも言いたげだが、そんなことで風邪でも引いたらとんだお笑いぐさだ。
けれどもこの状況で私のお願いが通るかというとそれはまた別の話なのだった。いくら正論を述べてみたところで「濡れたらいっしょにシャワーを浴びれば良い」などと頭の痛いことを言われるのだから堪らない。
自分は今浴びていたろうに。
思わず出た溜め息にパラドックスが反応した。

ナマエ
「なに?」

改めてパラドックスの表情を窺うと、彼は心底嬉しそうに目を細めている。なんだか体の芯から熱が湧き起こるのを感じた。

「ジャケットをありがとう」

会えるのを待ち遠しく思っていたと言われて、今度こそ血が沸騰しそうなほど体が熱くなる。まさか、気づいている筈がないと思うのに伸びてきた腕を拒否する術がなかった。

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