Me, my moon

13.6.21

YU-GI-OH/ブルーノ

*

私は白浜に立っていた。目の前の海は青く透き通っている。こんな場所ネオ・ドミノシティにはない筈だが、振り返った先にあるのは紛れもなくネオ・ドミノシティの街並みだ。街並みは息を吐きかけたガラス戸を通して見るように白んでいる。霧が出ているのだろうか。朝霧が。
一歩街の方へ近づくと景色がすぅっと遠去かっていった。霧ではなく、蜃気楼なのかも知れないな。もう一歩前に進むと、海を背にしていた筈なのに足が濡れる。私は沖に向かって歩いているのだった。
ナマエ
「誰?」名前を呼ばれた気がして足をとめる。
ナマエ」先ほどよりも鮮明な声が私の肩を叩いた。
ナマエ、大丈夫だよ」

*

私はいつの間に眠っていたのだろう。
はっと目覚めると目の前にブルーノの顔があった。ブルーノの顔には見覚えのない傷がついている。電車に乗る前からあっただろうか。よく思い出せない。

「ブルーノ……その傷、痛くない?」
「大丈夫。大したことないよ」

私が顔の傷に触れようと手を伸ばすとブルーノはその手を取り、唇で指先に触れた。
「本当に?」とてもそうは見えないのに、彼は明るく大丈夫だと繰り返す。
車体が風を切る音と共に周囲の光量が落ちてゆき、そのまま電車はトンネルへ侵入した。ランプの灯りが視界の端で勢いよく後ろへ流れていく。

「ブルーノそこにいる?」
「いるよ」

そう、いないわけがない。さっきまで手をつないでいたのだからいないわけがない……その筈だけど、手のぬくもりはもう感じられなかった。
周囲は闇に包まれ森閑としている。私ひとりが取り残されたみたいだ。
ここはいったいどこなのだろう。私は夢を見ていて、そして目覚めた筈だった。それなのにまたしても現実とは思えない場所で、闇の中を彷徨っている。こういうときはおとなしくじっとしているのが得策だろう。何も見えないし、聞こえない、どちらに進むべきかもわからないような場所を無闇にうろつくのは危険だ。もちろんそんなことはわかっている。
しかし私は両腕を前に伸ばして前進した。無駄に体力を使うことはないと思っていながら、立ち止まっていることができなかったのだ。確か、私を乗せた電車はトンネルに入っていった。入り口があるなら出口もあるだろう。
どれくらいの時間歩いていたのか、どのくらいの距離を進んだのか体感ではまったくわからなかった。不思議と恐怖心はなかったが、からだは確実に疲労している。いや、急にからだが重たくなったようだ。踏み出す足に枷が嵌められたみたいに重い。私は歩くことをやめ視線を足元に向けてしゃがみ込み、その足首に触れてみる。何もない。ここには何も--。
真っ暗な世界にぽつりと明かりが灯ったのはそのときだった。輝点は私の足元に一点、落ちていた。
太陽フレアのように見えたそれはついに私のからだを包み込み、あっという間に光の中へ落ちていく。ゆっくりと、誰かが待つ光の底に落ちていく。
浮遊感が消える頃にははっきりとその姿が確認できた。

ナマエ
「あなたは誰?」

男は困ったように笑い、自分はアンチノミーだと言う。私の知り合いにアンチノミーという名前の人間はいないが向こうは私のことを知っているらしい。彼が私を呼ぶ声はひどく優しくて、戸惑った。どこかで会ったことがあるような気はする。それなりに親しい関係だったような懐かしさも感じる。でも、だめだ。記憶の中にアンチノミーがいた痕跡は感じるものの彼と過ごした思い出がすっかり抜け落ちていた。
「ここはどこなの」私は後ろめたさをごまかすように辺りを見回した。
「ここはナマエの夢の中だよ」とアンチノミーは笑う。夢? アンチノミーの顔を見ていると、なぜだかこれが完全な夢だとは思えない。夢ならなぜ、笑う? 悲しそうに笑うのはどうしてなのだろう。私の夢だと言うならもっと楽しそうにしてよ。そう言ってみるとアンチノミーは「きみに会えて幸せだ」と応えたけれど決して楽しそうには見えない。「最後にもう一度ナマエに会いたかったんだ。もっといっしょにいたかった」
アンチノミーが頭上を指差す。
「もうすぐ来る。上を見て」
私は言われたとおり指差された方向に目を向ける。どこからか注ぎ込まれた黒い液体が、この白い空間を浸食し始めていた。しばらくすると星が瞬き出す。四方を黒に囲まれても、今度は星の光を受けてものを認識することができた。
「来るよ」
今目に見えているのは空に流れる銀河のみ。いったい何が。私がそう訊ねる前に二つの赤い流れ星が猛スピードで通り過ぎていく。
「あれは……」
あれは、星ではない。とろりと尾を引いたテールランプの灯りだ、Dホイールの。星々の間にはもう何も見えなかったが、Dホイールだった。間違いない。

「今のはなに?」
「あっと言う間だったね」
「ちゃんと話して。今のはいったいなんなの? 誰が乗ってたの……」

私は突然、猛烈な不安に駆られる。アンチノミーは質問に答えない。

「あなた本当は誰」
「僕はアンチノミー」
「違う」私はこの人を知っている。知っている筈なのに、どうしても思い出すことができなかった。
アンチノミーが微笑んだ。私の名を呼んだ。私は、誰の名前を呼んだらいいのかわからなくて唇を噛む。再び闇が明けていこうとしていた。アンチノミーのからだが淡い光に溶け出し、薄れていく。
私は先ほど見たDホイールの軌跡を脳裏に思い浮かべた。流星の多くは、地球に到達することがない。地球の大気に突入し、燃え尽きるのだ。あの二台のDホイールはどこへ向かったのだろう。アンチノミーはどこへ消えゆこうとしているのだろうか。

*

私は睡魔に引きずり込まれる恐怖を感じてぱっと目を覚ます。光が溢れる車内には私しかいなかった。隣を見ても誰もいない。
アナウンスが降車駅を告げる。誰かが、隣にいた筈なのに夢の気配は掴む間もなく霧散した。

「なんだかすごく眠い……」
「寝てていいよ、ついたら起こしてあげる」
「ありがと。でもあとちょっとだし、起きてるよ」

私はXXXXの肩にそっと凭れる。電車の揺れが心地よい。細めた目に映る景色はどんどん後ろへ流れていく。陽射しがあたたかい。
誰かが手を握ってくれたのがわかった。

*

瞼の裏が白く染まる。光は痛いほどに目映かった。
目を覚ますと車内アナウンスが降車駅を告げていた。数分まどろんでいたくらいにしか時間は経過していないが、からだがとても怠い。確か、夢を見ていた気がする。どんな夢だっただろう。記憶は、指の隙間から流れ落ちる水のように、一瞬でなくなってしまった。
私は半覚醒状態で車窓に視線を移す。快晴の空の下、どこまでも銀色の穂が揺れている。
まだ暖房するには早いけれど、エアコンの準備はしておいた方がよさそうだ。去年の暮れも調子が悪くなって、修理を頼んだのだ。もう寿命なのだろう。きっと繰り返し修理して使うよりも思いきって買い直した方が良いに違いない。そうすればシーズン毎に気を揉む必要もなくなる筈だ。
ホームに降り立つと冷たい風が吹き抜け、コートの裾を攫った。駅で待っていると言っていたブルーノは改札を抜けても見つけられない。何か急用でもできたのだろうか。携帯の通話ボタンを押しかけて、やめる。もしかしたら、いつものようにDホイールの整備に夢中で時間を忘れているのかも。
そもそも迎えなど必要ないと言ったのだ。みんなやることがある。忙しいのだから、と。
私は確かな足取りで歩き出す。普段の移動にはDホイールを用いてばかりなせいか、なんだか足元がふわふわするような気がした。
まだ夢の中にいるみたいだ。
頭の芯が痺れている。足を止める。今何かを思い出せそうな気がしたのに、また忘れてしまった。いったいなんだろう。
なんだろう、と考えているうちに私はポッポタイムの前に立っていた。扉のすぐ向こうから人の気配がして、遊星が出てくる。買い物に行くと言って出かけた遊星と、私は入れ替わりに中へ入った。
ガレージで作業をしていた男の姿が目に入る。
「ブルーノ……?」私が名前を呼ぶとぱっと顔を上げたブルーノと目が合う。
「わぁっ、ごめん、もうそんな時間だった?」
「大丈夫だよ」
「本当にごめんね、迎えに行くって言ってたのに」
ガレージから上がってきたブルーノが眉尻を下げる。目の前にいるのはブルーノ。どう見てもブルーノであるが、何かが引っかかっていた。

ナマエ? どうかした?」
「ブルーノ」
「うん。なぁに?」
「……久しぶりに会えて感極まっちゃった」
「本当? 僕もナマエに会えて嬉しいよ」

ブルーノに、下でお茶を飲もうと肩を抱かれる。
ブルーノ……。
この手、この顔、この声は、確かにブルーノのもの。だけど私は知っている。アンチノミーと名乗ったあの男も同じ手で空を指差し、同じ顔で笑い、同じ声で、「最後にもう一度ナマエに会いたかった」と言ったことを。
私は夢で見たそれを一瞬にして思い出して、ぞっとからだを震わせた。
あれは、夢じゃない。直感的にそう思ったのだ。
二人でお茶を飲んでいる間もずっと考えていた。ブルーノと他愛もない会話を交わしながら、アンチノミーとブルーノのことを考えていた。二人はどういう関係なのだろうか。同一人物なのか、それとも似ているだけの別人なのか。

ナマエと二人きりなんて珍しいよね」
「ここは賑やかだもんね」

ブルーノが私の髪に触れて、そっと梳く。空いている方の手は手に重ねて、甲から指まで繰り返し撫でていた。
ソファが小さく軋む。喉が詰まって言葉が出ない。

「ねえ、ちょっと待ってて。戸締りしてくる」
「遊星すぐ戻ってくるんじゃないの?」
「実は遊星たち、今日は帰ってこないんだよね」

「そうなんだ」私はブルーノの背中に向かってつぶやいていた。
なぜだかそれ以上言葉が出ないのだった。たった一言、「アンチノミーって知ってる?」そう訊くことができない。いざ声を出そうとすると頭の中からすっと言葉が消えていく。何度試してみても同じことの繰り返し。私には訊ねる意思がある筈なのに、私のからだが思うように動かないのだ。
食事中も、ベッドの中でも、今まさに帰ろうというときにも、私は彼に訊ねようと試みた。あなた、本当は誰なの? なんて名前なの? もしかしてアンチノミーというんじゃないの? ねえ、なんのためにここへ来たの? 私とこうしているの?
記憶を失っているというのが嘘でないならこれ以上酷な質問はないだろう。訊ければ、声になれば、訴えかけることができたなら……。もし話すことができたとしても、ブルーノはきっと答えられない。ブルーノは演技しているわけではなく、本当に覚えていないのだ。だからこそ、私は夢を見た。
私が経験したのは予知夢というやつなのではないかと思う。どこか、私の知らない場所で未来に起こること。それをアンチノミー、あるいはブルーノが、何らかの目的で私に見せたのだ。どうやったのかは想像もつかないし、肝心の目的もさっぱり見当がつかないけれどなんとなくそんな気がする。
ブルーノと離れがたかった。
「それじゃあまたね」と言ってからも手を握ったまま離そうとしないブルーノと、その理由は異なるのだろうが、少しだけほっとしている。

「どうかした?」
「どうかしたって……ナマエはなんで泣いてるの?」
「泣いてないけど」
「あれ……? 本当だ。おかしいな、泣いてるように見えたんだけど」
「見えた?」
「なんか……僕、変なこと言ってるかも。そうだよね、見えたって、変だな。ごめん。もっといっしょにいたいと思ってたから、かな? 変な言い訳しちゃった」
「ううん。私もまだいっしょにいたいよ」
「ねえ、戻ったらまたがんばるからさ、やっぱり送ってっていい?」
「うん」

今日、このタイミングで遊星たちが留守にしているのは彼らが気を使ってくれたからに他ならない。私とブルーノを二人きりにしてくれたのだ。
私たちは家の鍵を締め、手をつなぎ、駅へ向かって歩き出す。大事な話をすることができないまま。
今日という日に夢を見たのは必然だろうか。太陽のかけらを散らされた公園の噴水池を横目に息をついた。無数の星が川を成す藍の空。その向こうに消えた二台のDホイール。夢が現実になるなら、私たちはまたね、と別れたきり会えなくなるのかも知れない。
(実感が湧かないな)
私はまどろみを感じながらブルーノの手をぎゅっと握った。踏切の向こうに溢れている蜜色の光が私の思考を歪ませていく。
私が手繰り寄せたかった言葉は、いざ泣く必要に迫られるときまで、見つけられそうにない。

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