簡単な任務の帰りにふと恋人の顔が見たくなって、衝動のままに家を訪ねてみた。日付も変わろうとしているそんな時間だったが彼女は風呂に入った様子もなく、あまつさえ菓子作りに夢中であった。砂糖の甘い香りが部屋に充満している。台所に立つ彼女の手元を覗き込むと邪魔と言わんばかりに振られた泡立て器からホイップクリームが飛んできた。
「急にくるなんて珍しいですね。どうかしました?」
「……いや、なんとなく」顔についたホイップクリームを指で拭い口に運ぶ。
これといって用事があったわけではない。本当になんとなく、だったのだがナマエの聞いているんだかいないんだかわからない返事を待っている間、とてつもなく居心地が悪かった。彼女は何かと理由を求めたがる性質で、こういうときは声を聞きたくなっただとか顔を見たくなっただとか言っておく方が無難だ。
「見られてると気が散りますのであっち行っててくれませんか。カカシ先生」
「ナマエの先生は俺じゃないでしょ」
ナマエが視線だけ振り向いてため息をつく。嫌味、なのか。確かに最近は生徒にかまけてばかりでナマエを放ったらかしにしていたが、彼女は生徒にヤキモチを妬くようなタイプでない。彼女にそんな可愛げがあればとっくの昔に破局していることだろう。
「先生同士で誰々先生、とか呼び合うじゃん。教え子しかカカシ先生って呼んじゃダメなんておかしい」
「屁理屈がうまいね」
間仕切りの向こうに置かれているソファの背に凭れ掛かり、彼女の作業を眺める。
クリームの角を確認して納得がいかなかったのかナマエは再びボールを抱え泡立て器を握りしめた。
「先生、お風呂は入ってきたら?」
「ナマエに先生って呼ばれるとなんか落ち着かないよ」
嫌というか、いけないことをしているような気分。そんな感じ、と言うとナマエは背中を向けたままおどけた声を出した。
「あらぁ、それで興奮しちゃうってわけですね」
「どーしてそうなるかなぁ」
ナマエは背徳感が恋情を燃え上がらせるのだと楽しそうに語るが果たしてそうなのだろうか。自分は生まれてこのかたそのような気持ちになったことはないので一向にわからない。彼女は語るだけあってそういう経験があるのだろうか。訊くとナマエはこちらを一瞥してから泡立て器をボールのふちでがんがん叩いて、流しへぽいと放り込んだ。
冷蔵庫へ向かった彼女が口を開く。
「いやー私の担当女性だったし、既婚者は守備範囲外なのでそういうのはないなぁ」そもそも、と続けて彼女は言った。「奪ってでも欲しいものってそうあるものじゃないよね」
冷蔵庫から取り出したスポンジに、ナマエは完成したばかりのホイップクリームを塗りたくっていく。ナイフを扱う手つきが些か乱暴な気がしたが、それでも結果的に美しく仕上げるのだから文句のつけようもない。
「カカシ先生は独身で良かったね」
「独身じゃなかったらナマエに見向きもされなかったわけだもんねぇ」
「いや、そうじゃないですよ。結婚してたらさ、先生少なからず不幸になってるもの。カカシ先生だったら奪ってでも欲しいもんね」
ナイフについた生クリームを指で拭って舐めた彼女はナイフも流しに放った。今度は冷蔵庫からカットフルーツを取り出しデコレーションを始める。その間こちらはちらりとも見ない。ナマエの激しい言葉にどう返せば満足してくれるのだろうと考えていたら、彼女は何が面白いのかくすくすと笑い出した。--苺を摘み食いして喜んでいる。
「私はカカシさんが幸せなら、なんて考え方はできない」
「見返りを求めないのが愛じゃないの」
ナマエはトッピングの苺をまたも摘みながら振り返った。シンクに寄りかかってじっとこちらを見ている。真っ二つにされた苺の片割れを租借し終わると彼女は宙に視線を漂わせてからもう一度俺を見た。
「私の愛は有償ですよ。知らなかったなら覚えておいてください」
「ナマエ以外の女と結婚しなくて良かったかな?」
「そうでしょう」
意味深にほほ笑んだ彼女はラップをしたケーキを手早く冷蔵庫に押し込むと、箱の扉を勢いよく閉めた。
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