自動販売機の前で小銭をばらまいている人がいた。よく見ていなかったけれど、どうやらぶつかられたらしい。男子学生数人がぎゃははと下品な笑い声を上げて私の隣を通り過ぎて行く。ここで強く出られたらどれだけ良いだろう。「ちょっと待ちなさいよ」そう言って彼らをぶちのめす妄想などするだけ無駄だが、せめてもう少し勝気な性格であればと思わずにはいられない。
「大丈夫ですか?」私は学生服の背中に声をかけ、拾った数枚のコインを差し出した。振り返った彼の肩口から癖のない長い髪が零れ落ちる。彼は立ち上がると意外なほど身長が高く、どぎまぎしてしまった。
「ありがとうございます。あなたはとても親切な人ですね」
「こ、これくらい普通だと思いますよ。さっきの人たちが変わってるんです」
「ああ、見られてましたか」
私は自分の不用意さを呪った。
「すみません。注意できなくて……」
私が喧嘩しても勝ち目はなかっただろうが、見ていたくせに何もしなかった現実を突きつけられると今さらながら恥ずかしい。彼にも恥じをかかせてしまったかも知れないと思ったら顔がひりひりした。
「あなたが謝ることはありませんよ。むしろよかったです」
「よかった?」
「はい。わたしのせいであなたを危険な目に遭わせてしまうところでした」
彼は支倉未起隆と名乗り、ほんの少し首を傾ける。私も慌てて自己紹介をしたがなんだか変な気分だった。
帰宅途中で見ず知らずの男に本名を教えている……これは少しまずいのではないか。支倉未起隆は良い人そうに見えるけれど、まだどこの誰とも知れないのだ。急にお礼をさせてくださいと迫られて、素直に「うん」と言える筈がない。筈はないのだが、支倉未起隆の物言いに容赦はなかった。
「何かして欲しいこととか、欲しいものとかありませんか。あなたのためならわたし、なんでもします。恩人ですから。さぁ、遠慮せずに言ってください。わたしは何をしたらいいですか?」
自分は大丈夫だと思っていたけど、考えを改めよう。私はきっと、強引な新聞勧誘だとか壺の押し売りに逆らえない。
「どうしてもお礼がしたいです。些細なことでも、ぜひ、教えてください」
「う、え……えーと……」
どうしよう。
どうしよう、どうしたらこの場をうまく切り抜けられるだろう。支倉未起隆はなんでもすると言っているが、さすがにそれは嘘に決まっている。そうだ。無理難題を吹っかければ諦めてくれるのではないだろうか。たかだか数枚のコインを拾ってあげただけで「なんでもする」なんて大仰だ。私が「死ね」と言ったら死ぬのか? まさかそんなことは冗談でも言えないが。
「あっ、あー……あの、じゃあ、じゃあ、ね……しばらく恋人のふりしてくれ、ませんか。私の友だちみんな彼氏がいて、なんか最近ハブられ気味っていうか、話についてけなくって居心地悪いんですよね、あはは」
「恋人のふり、ですか」
「もちろん断ってくれていいんですよ! せっかくだしジュースでも奢ってもらおうかなぁ。そっちの方がいいですよね」
「いえ、そんなことでよければ」
「……え。どっち……?」
「恋人のふりですよね。喜んで協力しますよ」
反射的に「どうもありがとうございます」と言ったような気がするが、これは果たしてありがたいことなのか甚だ疑問である。実際問題、迂闊な発言のせいで大事になってしまった。
いや、しかし。
私はこの支倉未起隆という人の顔をちらりと見る。彼がとんでもない変人だという可能性は高い。
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