波跡*

12.6.21

YU-GI-OH/鴻上了見

いつものように駅までの道のりを二人並んで歩いている最中、道路の真ん中で鴻上くんが不意に立ち止まる。いつもより纏う空気が張り詰めているので何かあるとは思っていたが彼から発せられた言葉には驚きを禁じ得なかった。家に来ないかと誘われたのだ。その目があまりに真剣で私は息を飲んだ。

「今日、これから?」
「ああ」

もう陽は傾き始めているというのに。鴻上くんは返事を聞かずに再び歩き出す。家に帰るなら私は電車に乗る必要がなかったが、鴻上くんといっしょに改札を通過し、数駅移動した。
鴻上くんの家は家というより屋敷と呼べるほど大きかった。崖の上に建つ海の見える大きな家。長いスラロープのような坂を上った先にその家はあった。
電子ロックを解除した鴻上くんが私に入室を促す。私は背中を海風に押されてそこへ踏み込んだ。
「広いね。掃除とかどうしーー」
緊張を誤魔化すように発した私の言葉は電話の着信音に遮られた。本日、二回目だ。輪をかけて忙しそう、どうして今日なの? と思わず問いたくなったが、私の気持ちとは関係なく口を挟む余地はなかった。
「すまない。二階に上がったらいちばん奥に見える部屋だ。中で待っていてくれ」鴻上くんは着信のあった端末を一瞥して早口に言い、今入ってきたばかりのドアから慌ただしく出て行く。家の中に私をひとり置いていくのは構わなくても、電話の内容は絶対に聞かせたくないわけだ。
それとも、他に誰かいるのだろうか。彼が言っていた部屋で、誰かが先に待っているとか。二階の廊下まで上がり耳を澄ましてみたが何も聞こえない。庶民でも家事をロボットに肩代わりさせる時代にも関わらず、それらが動いている気配すら感じられないのが不思議だったけれど、この、妙な雰囲気には覚えがあった。
私は鴻上くんが指定していた部屋を一目確認してから手摺を掴み、いけないことだと理解しつつ三階に向かう階段に足を置く。何が私を突き動かすのか私自身にもはっきりとはわからない。ただ無性に胸がざわついた。
一段、二段。一歩、二歩。
三階の静けさは余計に不安を煽る。階段はここで終わっているが、外観からすればもう一階分の空間が頭上になければおかしい。私は他の部屋とは明らかに異なる部屋の入り口に目をやった。扉はないもののシャッターがついているらしく、必要があればリモコン操作で開閉できるようだ。この部屋を通り抜けて上の階に行くのかも。
私は深く息を吸う。

「二階だと言っただろう」

肩を跳ね上げ振り返ると今までに見たこともないような冷たい目をした鴻上くんがそこに立っていた。

「ごめんなさい。も、物音が聞こえた気がして……誰か、いる……?」
「……父だ」
「そうなんだ。じゃあご挨拶を……」
「その必要はない」
「でも」
「いいんだ。邪魔になるといけないから」

鴻上くんに近づいて行くと、彼は宥めるようにそう言って階段を降った。私がちゃんとついてきているか確認するために向けられた視線はもういつも通りの熱を宿している。ただし、普段通りの鴻上くんに戻ったとは言い難く、鴻上くんの様子はやはり普通ではない。さっきの部屋や、鴻上くんのお父さんのことが気にかかってもそれを口にして許される空気ではなかった。

「入って」

もっと別の日にここへ来ていたら、部屋の広さやイメージしていたよりものが置かれていることにはしゃげたかも知れないと思うと一抹の侘しさがあった。

ナマエ。こっちに来てくれ」
「どこ?」
「ここだ」

ベッドに腰掛けた鴻上くんが私を呼んでいる。自分の隣に座れと言っている。

「椅子の方が落ち着きそうだけどな」

ベッドの軋めきが部屋中に緊張感を張り巡らせ、私の鼓動をいくらか速めた。
もう問題と向き合わなければならないのか。無遠慮に凭れてきた鴻上くんの頭を見ながら思う。人間の頭って重い。
まさか今朝はこんなことになるなんて想像もしていなかった。いや、今朝に限ったことではなく、今までも、これからも彼が必要以上に私を近づけることはないと思っていた。家に呼んだり、ましてや自室に招き入れたりなんて。いつものように会って、話して、家に帰る。そうなる予定がいつの間に変更されていたのか私にはわからない。

「今日は泊まっていくといい」

鴻上くんは私の肩からほんの少し頭を浮かせてそう言った。「いてくれるだろう」
鴻上くんを受け入れるか、拒むか。彼のお願いを聞くか、聞かないか。瞬間的に脳裏を過る二択。そのときの私は自分がまるで超能力者になったみたいに彼の心を思い描けた。鴻上くんがどういうつもりで私に甘えているのかが、驚くほどはっきりと、見えた。鴻上くんは「ナマエなら許してくれる」と思っていて、「受け入れてくれ」ではなく、「受け入れない筈がない」と思っている。それは決して信頼ではない。
きっと、怒ってもよかった。許してくれるからといって要求していいことではないということと傲慢な思い上がりについて、指摘さえすれば鴻上くんは正しく受け止める。しかしながら、私は彼を反省させたいわけではないし、謝らせたいわけでもない。私を省みてほしいとも思わないのだから、何も気づかなかったふりをして、彼を受け入れても構わないのだ。そう、構わない。大したことではないと胸中で何度も繰り返す。私が躊躇ったのは、私の経験不足によるところが大きい。鴻上くんとの関係が他の誰とも違うものになることは明白なのに、その先がまったく見えなくて怖かったのである。

「鴻上くん」

鴻上くんの瞳に不安の色が滲むのを目にして、私は同情した。やはり、どんな理由があっても鴻上くんを拒む選択はできないと思った。沸騰した夜はすべての出入り口を閉ざしたが、何も鍵がかけられていたわけではなく、出ようと思えば出られた。このときすでに私は自身の意思で部屋に残ることを決めていたのだ。
「いいよ」その言葉が合図になった。
もしも私がこの瞬間、彼のために笑顔を作れていたら、映画に出てくる賢くて可愛いヒロインみたいな女の子になれたのだろうか。

***

私は鴻上くんにぼんやりした人間だと思われているのかも知れない、とそれこそぼんやり思った。それは、半分本当だ。半分というのは、鴻上くん以外にぼんやりしていると指摘されたら反論があるからで、鴻上くんに限っていえばどこも間違っていないと頷けるから。鴻上くんと比べたらものを考えているとは到底主張できる筈もないからである。
私はどちらかというと積極的に思考を捨てているし、どうしても考えなければならないこと以外考えないようにしている。言い訳染みているが、今直面している諸々の問題が脳の思考領域をこれでもかと圧迫してきて日常の些末な問題にまでかかずらっている暇はないのだ。
私の人生は……人生などといったら大袈裟すぎるな。言い換えよう。私の繰り返される毎日は、姉と共にあり、そこに最近鴻上くんの存在が添えられていた。
大抵のことは姉を優先する。私を育ててくれたのは他ならぬ姉だ。だから私は彼女に尽くしたい。できる限りのことをしてあげたい。リソースは九割、姉に割いてきた。姉のために勉強し、お金を稼ぎ、したくもない愛想笑いを浮かべ、おとなのご機嫌をとってきた。従順でいることを苦に感じない性格だったことが幸いといえる。たぶんそれが、鴻上くんを誤解させたのだと思うと少し心苦しいけれど、これも運命だと割り切っていた。
やっぱりというか、私たちは恋人という関係に至らなかった。
やっていることは恋人のそれと変わりないし、世間からみると恋人の範疇に収まっているのかも知れない。「付き合おう」という言葉がなかっただけで、付き合っているようなものだとか、付き合っていると思っていたなんて話は時々聞く。認識の問題なのだろう。言わなくてもお互いがそう意識していれば恋人だし、意識していなければ恋人ではない。私と鴻上くんは後者だ。世間がどう言おうとも私たちはお互いにお互いを恋人だとは思っていない。それだけははっきりしている。
私としては恋人にしてもらえるものならしてもらいたい。でも鴻上くんにその気がないことはわかりきっていた。恋人にしてくれと要求したとして鴻上くんが離れていくかどうかは微妙なところだろう。友だちのままでいられそうな気がするけれど、しかし恋人関係を望んでいると思われたら今の関係は消滅すると思う。

「真面目なんだよなぁ……」

私はコーンに乗ったキャラメルバターアイスを舌先で舐めながらブランコを揺らした。病院の白壁がよく見える。医者から姉の転院を勧められるのもこれで何度目になるか覚えていない。少なくとも初めてではない。先ほど医者から言われたことは何も驚くようなことではなかったが、私に言われても困る話だった。
姉の処遇に関して、私に決定権などないということが彼らはわかっていないのか、あるいは私が逐一出資者と連携を取っていると思い込んでいるのかは判然としない。彼らの親切心を無碍にしたくはないけれど、どちらにせよ無駄な行為だ。
姉は一生、たぶん、機械の故障か何かで生命活動が停止するまであのまま。たとえ私が朽ち果てても生かされ続ける。
私はもうほとんど確信していた。鴻上くんの家にいる、会ったことのないお父さんが私の姉と同じ状況にあることを。
鴻上くんはこれまで寝たきりの家族が父親だと口にしたことはなかったが、家の中に漂う、あの濃密で乾いたノイズのような空気感は姉のベッドの周りに立ち込めているものと酷似している。もしかすると電脳空間に意識をコピーしたというところまで同じ可能性も。鴻上くんは私が、事故で抜殻になった姉と電脳空間で会っていることを打ち明けても大して驚かなかった。寛容な人だとさらに好感を抱いたが、今となっては自分も同様のことをしていたからではないかと思える。
鴻上くんは狡い。黙って私を利用する人を良い人とはいわない。
それでも私は鴻上くんの家におとなしく招かれるし、糾弾することはないと言いきれた。

一度試しにこういうことをする相手が他にもいるかと訊ねてみたところ、鴻上くんは困ったように笑い「いるわけないだろう」と答えた。私がどっちでも構わないと思っていることを知っている顔だった。
私は汗に濡れた鴻上くんの額を視線でなぞる。小刻みに吐き出されるその息に、私の脳髄とベッドが揺らされていた。
眉間の皺。かすかに開かれた唇。喉仏、鎖骨、広い胸が、衣類を纏っていない肌に擦りつけられる。下半身は相変わらず柔らかくなった肉の上を行ったり来たり。
今すぐしたいという顔で誘うのに、彼はいつまでも私の胸を触ったり指をしゃぶったりするだけで挿入しないことが疑問だった。優しさにも限度というものがある。現実の時間を忘れたみたいに舐められ、吸われても、お礼をしたくはならない。
最近になって、そもそもがセックスしたいイコール挿入したい、ではないのではないかと考え始めていた。例外なく男の人というのはそういうものだと思っていたがどうも違うらしい。素直に考えるなら、鴻上くんは挿入したいのではなく触りたいのだ。わたしのからだを。裸の胸を擦り合わせて、首筋のにおいを嗅いで、太ももを撫で上げ、ぬかるみに指を沈めることが目的だ。その後のことは収まりがつかないからと理由付けする方がしっくりくる。
指の股を摩られて熱いものがつま先から膝裏に駆け上がっていった。私が鴻上くんの首に腕を回すと彼の唇が降ってくる。赤い舌が覗く。何度もしているのに、唇を噛んで、些細な間違いを探し当てようとするように舌が入ってきた。
甘い。背筋が痺れる。鴻上くんの手は脇腹を撫で浮き出た腰骨の上を通って足の付け根をゆっくり下る。解放された口で、私は長い息を吐いた。その頃鴻上くんの口は正中線を辿って臍、少し戻って乳房の裾野を脇に向かって啄ばんでいる最中で、そこにはかすかに終わりの気配があった。
鴻上くんは胸の先端を口に含みながら陰核を擦る。こちらの頭がおかしくなりそうなほど、擦ったり、押しつぶしたり、指で円を描く。さすがにもうやめてほしいと泣いてもお構いなしだ。嫌で泣いているわけではないけれど、声が聞こえていないのではないかと感じることはままある。夢中というより、取り憑かれているという感じ。時々垣間見える鴻上くんの不安や焦燥は、言葉にされないだけマシと思うようにしている。
黙って友人関係を続けるより、こんなふうになったことが良かったのかどうか。
私は眼裏に立ち込める靄を払い除けながらベッドに伏せ、背中に鴻上くんの吐息を受けた。

ナマエ……、もっと、近くに……」
「いるよ、私は、ここ」

譫言のように名前を呼ぶ鴻上くんは今どんな顔をしているだろう。切羽詰まったような苦しげな声を、昼間にも聞く機会が増えたせいで想像することは容易かった。
耳にぶつかる鴻上くんの熱と記憶の中で明滅する溶けだしたアイスクリームの甘さ、冷たさ。
彼は昼と夜の狭間に立っている。鴻上くんが闇の中に溶け込んでいかないよう、誰かが見張っていなければならない。朝になったらはたらいて、夜になったら眠るの。
いつか彼が私にアイスクリームを買ってくれたみたいに、私も私の持っているものをほんの少しだけ鴻上くんにあげる。お互いの最も優先すべきものを侵さないようほんの少しずつ、与え合う。そうすれば私も、鴻上くんも、何食わぬ顔で一日を終えられる。

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