すべての冬

12.6.21

PERSONA/ジョーカー

苗字ナマエの幻は、おとなしく幻のままではいてくれなかった。
彼女には体温があり、意思がある。傲慢とも取れる強引さで俺の手を引いた人物は確かに実在していた。
東京に苗字ナマエがいるわけがない。よく似た気配に振り返り、彼女の肩に触れるまでそんなことは思い出しもしなかったが、苗字ナマエは言ったのだ。「私はこの町から絶対に出ない」と。濡れた瞳はまばたきに隠された。蔑むような視線といっしょに。

「ねえ、聞いてる?」
「うん」

結露のひどいカップを掴み上げストローを咥える。空席が目立つファーストフード店でわざわざカウンター席を選んだ少女は、からだを半分捻るようにしてこちらを見ていた。

「好きだったんでしょ、その子のこと」
「違うよ。それはない」
「うそ。じゃああなたって、誰にでもああなの。大して仲が良かったわけでもない同級生とすれ違って全力疾走するわけ?」
「……そう言われると困るけど……本当に大した理由があるわけじゃないんだ」

苗字ナマエは中学生の頃、隣町から越してきた転校生だった。派手さはなく、かと言って暗い印象でもなく、すぐクラスに馴染んだ。だが彼女は徐々にクラスメイトたちから煙たがられ出す。
娯楽の少ない田舎町で人の噂が広まるのはあっという間だ。苗字ナマエに纏わる噂は彼女の母親が同級生の父親と不倫した挙げ句、蒸発したというものだった。もっと遠くへ引っ越せば親の不始末などなかったことにできたのではないか、と思ったが、女子中学生がひとりで生きていく方法など多くはない。苗字ナマエに父親はいなかった。頼れるのは母方の祖父母だけだったのである。
苗字ナマエの住む平屋は通学路の途中にあった。近所では有名な家だったが表札に出ている名前と彼女の苗字が一致しなかったのでそこに知り合いが住んでいることにしばらく気がつかなかった。登校時間もやたらと早く、顔を会わせる機会がなかったせいもある。今考えると、避けられていたのかも知れない。
苗字ナマエが転校してきたのは夏休みが明けたばかりの頃で、初めて言葉を交わしたのは初雪が観測された日だった。
彼女は朝から軽い咳をしていた。いつもならすぐには学校を出ないのに下校時間になると真っ先に教室を出て行ったことをよく覚えている。俺は苗字ナマエを追った。昇降口で声をかけ、いっしょに帰らないかと誘った。家が逆方向にあったら諦めるつもりだったが、彼女の方は俺の家が近くにあることをすでに知っていたらしく、何も言わずに頷いた。

「のど、大丈夫?」
「うん。風邪じゃないからすぐ良くなると思う」
「そっか。バス?」
「いつもはね。でも今日は乗らない。バス停で別れる?」
「俺も歩くよ。せっかくだし」

雪がちらつき始めても彼女は気にする素振りすら見せなかった。寒さで赤くなった頬が目立っていた。首には何も巻かれていない。苗字ナマエはコートすら着ていなかった。
なぜ今日はバスに乗らないのかと訊くと、定期が見つからなかったからだと言う。コートはどうしたのかと訊くと、母親に着て行かれたのだと言う。祖父母と三人で暮らしているのではなかったのかと訊ねかけて俺は口を噤んだ。

「噂されてることならぜんぶ本当だよ。昨日たまたま帰って来たの、お母さん。朝ごはん食べたらすぐどっか行っちゃったけど」
「……嫌じゃないの」
「私が小さいときからそうだもん。お母さんのことはなんとも思ってない。それよりきみみたいな人の方が迷惑なんだよね。この間も隣のクラスの女の子に、自分の母親が他人の家庭壊してる事実をもっと重く受け止めろって言われたけど私は関係ないでしょ。説教で気持ち良くなりたいなら他を当たってほしいよ」

苗字ナマエの声は笑っていた。慣れきっているのだ。そう思ったら、途端に自分が恥ずかしくなった。きっと何を言っても言い訳に聞こえるだろう。説教をしたいだなんて思いつきもしなかった。なぜ苗字ナマエに声をかけたのかと訊かれたら、ただ単純に、クラスメイトと話してみたかっただけ。それだけのことだと思っていたのだ。転校生である彼女にたまたまそういった事情があっただけで、自分にそれを糾弾する資格などあるわけもない。

「私はここで暮らす。絶対に出て行かないから。気にくわないならあなたたちが出て行けばいい」

それから俺は苗字ナマエと言葉を交わしていない。
好きでそうしたわけではないが、結果的に俺は町を出ることになり、今は東京に住んでいる。戻るつもりではいるものの、帰ったところで彼女と再び話すことができるかは疑問だ。

「あなたが私に声をかけてきたのもなんかわかるなぁ」
「後ろ姿が少し似てて」
「んー……私のとこも母親がだらしなくて、おじいちゃんおばあちゃんと暮らしてるんだ。そういう子に惹かれるのかもね」
「まさか」
「まさかってどっち? 日本中探せば似たような境遇の女の子なんていくらでもいるし、私に声をかけちゃったのは偶然でしょう」

なんだか楽しそうにしている目の前の少女が言う「そういう子」とはどういう人間を指すのか。言っていることが本当だとすれば二人は境遇こそ似通っているかも知れないが、性格はまるで違って見える。話せば話すほど、影は薄れていった。
苗字ナマエに対する恋愛感情は決して存在しないと言い切れる。ではなぜ彼女を忘れられないのだろう。そんなこと、恥でもなんでもないのに、言い訳をしなかった未練か。誰かを、苗字ナマエを失望させた後悔なのか。

「もしきみを好きになったら俺は最低だ」
「そんなことないよ」

また来週この店で会おうと言って差し出された携帯。
連絡先を交換して立ち上がった少女の顔を見上げると、彼女の瞳もまた、濡れていた。

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