「ノート貸してくれないか」

急に声をかけられて顔を上げるとそこにはやけに顔色の悪い太刀川慶が立っていた。
太刀川慶とは、恋人でもなければ友だちでもない。それどころか今までろくに会話もしたことがないのにノートを貸してくれとはずいぶん厚かましい奴だと思った。試しに「誰?」と言ってみたら太刀川慶は別段気を悪くしたふうでもなく「同じ授業取ってる太刀川。今日の講義間に合わなくてさ、ノート貸してほしい」と応えた。仄かに漂っているアルコール臭は太刀川慶から発せられている。午後の授業にも間に合わないほど飲むなんて正直信じられない。
厚かましい上にだらしがない奴なんだ。私の中で太刀川慶の印象がさらに悪くなる。

「どうしようかな。ノート返ってこなかったらやだし」
「いやいや、ちゃんと返すよ」

太刀川慶はボーダー隊員として活躍しているのでファンが多い。是非ともノートを貸したいという女子がいる筈だが、なぜ私に声をかけようと思ったのか。
黙っていても太刀川慶が諦めていなくなる気配はない。こういうとき、俯いて沈黙していれば「あー……やっぱり大丈夫。ごめんね」と苦笑混じりに去っていく人間が大半なのだが。
「他の人に頼めないの?」そう言えば、貸したくないことを察する筈だと思ったのだが、太刀川慶はなんてことなさそうに「うん」と頷いた。なんで? 私は首を傾げる。頼める人がいないわけないのに、なぜこんなにも堂々と嘘をつくのだろう。
「じゃあ一ページ千円」
「サンキュー」
「本気?」
私は差し出したノートを素早く引っ込める。太刀川慶の手が空中で行き場を失っていた。
「貸してくれるんじゃないのか?」
「金取るって言ったんだよ、いいの? 今日は三ページ、三千円取るよ」
「それくらいなら全然大丈夫。こないだボーナス入ったから。それよか単位がやばい」
笑いながら財布に指先を差し込んだ太刀川慶を見て、こちらが慌ててしまった。「いいから!」私は彼の手元にノートを押しつける。「冗談だよ、お金なんて取れるわけないじゃん」
「俺にタダで貸したら他のやつも集まってくるぞ。苗字さん真面目で有名だからノート狙ってるの多いよ」
「有名って……」
それは、皮肉か。
私は太刀川慶が差し出した三千円をおとなしく受け取る。無条件でノートを貸すことで後々面倒に巻き込まれる可能性は高い。彼が言うように自分にも貸してくれと言ってくる人間が必ず現れるだろう。しかもそれが非常に断りづらくなる。

「なあ、腹減ってない?」
「え? そんなには……」
「今日のノートにラーメンって書いてあるけど」
「わっ! ちょ、ちょっと」

太刀川慶からノートを取り返そうと手を伸ばしてみたが、彼はひょいと机から離れてしまう。ぱらぱらとページがめくられる音。思い出せる限りでも下手くそな餃子と寿司を描いた記憶がある。

「落書きくらい誰だってするでしょ」
「するね。大丈夫、大丈夫。これは二人の秘密ってことにしとくから」
「最低……」
「それじゃあラーメン食いにいきますか。さっき手持ちの財産全部苗字さんに渡しちゃったから悪いけど苗字さんの奢りで」

さあ、さあ、と言って太刀川慶は前を歩いていく。よく考えればあんなの弱みにもならないが、どういうつもりなのだろう。私はまだ手に持ったままだった三千円に視線を落とした。ちょっともらいすぎたと思っていたので奢るのは構わない。だがこれが計算されたものなのかただの偶然なのか私には判断することができなかった。

NAME CHANGE

TEXT

QooQ